超訳聖書、ふたたび
やっぱり「関口ふざけてる」とか思われるのでしょうか。「気持ち」を訳したいだけなんですけどね。
以下に「超訳」を試みたのは、十字架を前にしたイエス・キリストと使徒ペトロの対話なんですが、雰囲気的にこういう感じだったんじゃないかなと、ただ思っただけです。するどいツッコミには耐えられません。
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ルカによる福音書22・31~34
ルカ著/関口 康「超訳」
「おいおい、ちょっとそこ、聞いてる?シモンくん。ぼけっとしてないで、ちゃんと聞いててよ。いまちょうど大事なこと言ってるところだからさ。
でね、サタンてのがいてね、そいつがさ、きみたちのことを『脱穀してもいいでしょうか』とかコエエことを、神さまに願っちゃうわけよ。食えるヤツラと食えねえヤツラを分別したいんだってさ。
でね、神さまもダメとか言ってくれりゃあいいものを、『おお、いいよ、やってみな』とか言っちゃう。神さまって方もね、そういうコエエところがちょっとあるのよ。
まあ、でもね、ぼくはきみたちのために神さまにお祈りしといたよ、『もう、そんなヒデエ神さまとか信じられねえよ』とか、きみたちが言いださないようにね。
だからさ、たぶんこれからきみたち、スゲエ落ち込むことになっちゃいますけどね(だって、ぼく死ぬし)、そこから立ち直ったときには、ぼくらの仲間のことをせいぜい励ましてやってくれたまえよね、あはは」
と、イエスさんは言ったんです。で、イエスさんがそんな言い方するもんだから、シモンがキレて、
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ待ってくださいよ、何言うてまんねん、イエスさん。わては死ぬ気の覚悟で、今まであんたについてきたんですわ。どこでも行きまっせ。刑務所?死刑場?そんなの、ちょろいもんですわ」
とか言い出したりしたわけ。そしたら、そのときイエスさんがペトロに言った言葉が、なかなかなもんでした。
「ペトロくん、きみはいま、ぼくのためなら死ねるとか言ったよね?かっこいいね。
でもさ、それはいま、そう思ってるだけだよ、あはは。いざとなったら、『イエスとか、はあ?ですわ。そんな人、知りませんから』とか言うからね、大丈夫だよ。
ニワトリってさ、とりあえず毎朝「コケコッコー」とかデカイ声で鳴くわけだけど、あいつらが鳴く前にね、てことは今晩中にね、きみはぼくのことを『知らんです』とか、三回くらいは言うからさ。
別にいいよ、そう言っても、ぼくはゼンゼン大丈夫だから。ぼくはきみのそういうところを知ってるし、そういうところを含めて好きだわ。『知らん』とか言っても怒んないからね。逃げてもいいし。
まあ、ぼく死ぬけどね、ぼくのことは放っといてくれていいからさ。きみらは自分の命のほうを大切にして、ぼくらの仲間を守ってやってくださいな。死に場所、間違えたらいかんよ。」
【超訳の解説】
今回の超訳のオリジナルは、ある方のご質問に答えるために書いたものです。つまり、あるコンテクストが前提にあって考えたものです。
イエスさまがペトロの否認を予言できたのはどうしてでしょう(大意)とお尋ねいただきました。この件について私が考えてきたことは、イエスさまの予知能力だとか、霊能者イエスだとか、「なんでもズバリ言い当てられる。全知全能だ。だからイエスさまは神さまなのだ」的に解釈するのは間違いだ、ということです。
別にそういう意味ではなくて、イエスさまとペトロの親密な間柄の中で、ペトロの弱さを知り、かつかばうお気持ちをイエスさまが表わしておられるんだと思いますよ(大意)という返事をした際、この超訳が飛び出しました。
その方に書き送ったあと、大幅な増補修正しました。自分の読み方に固執するような意図などは皆無です。
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