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2011年4月 7日 (木)

Facebookをしながら、いつも思うこと

Facebook恐るべし。まだまだ使いこなせているとは言えませんが、最近こいつ(FB)の存在理由(?)が少しずつ分かってきました。

私の「友達」になってくださった方々の中には一面識も無い方(顔写真を見てしまった以上、もはやそうは言えない感じですけど)が若干おられるものの、ほとんど大多数は、昔からの知り合いです。

しかも、とくに最近は、「やっとfacebookはじめたよ」の人が増えてきたこともあるようで、中学、高校、大学、神学校でのそれぞれの同級生が揃い始めています(もちろんキリスト教の洗礼を受けていない方もたくさんおられます)。私は牧師になってからもいくつかの地を転々としましたが、それぞれの地で知り合った方もおられる。

つまり、私の「友達」とは、私の「旧悪」を知る人たちのことです!(ブルル)

そのような方々の顔が、全く同じ平面上(私のパソコンの画面のことですが)で見えることが不思議でたまらないし、面白くて仕方がありません(失礼と思われたらすみません)。

他方、「そろそろ忘れさせてくださいな」と言いたくなるような遠い過去の苦い思い出が、旧友の顔写真を見ると、フラッシュバックしてくるという作用もあるようで、そのあたりはやや微妙な気持ちでもあります(苦笑)。

牧師だから言うわけではありませんが、facebookで「友達」の顔を見るたびに、「罪の赦し」が重要だと深く思う今日この頃です。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイによる福音書6・12、新共同訳聖書、「主の祈り」の一節)という言葉を噛みしめています。

みんな、ごめんね!ぼくが悪かった。赦してください。(平謝り)

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