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2010年6月23日 (水)

A. A. ファン・ルーラー著『われ信ず』(使徒信条の黙想)より「陰府に下り」の全訳

A. A. ファン・ルーラー著『われ信ず』(使徒信条黙想)より/関口 康訳

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インターネット版「ファン・ルーラー著作集」の『われ信ず』のページ

25 陰府に下り 

「陰府に下り」の条項が東方教会または西方教会に属するいくつかの教会が採用していた信条の中に加えられたのは、四世紀に入ったばかりの頃のことでした。そして、この条項が使徒信条に受け入れられたのはもっと後の時代のことです。しかし、この思想はそれよりもはるか以前からキリスト教に息づいていました。この思想はキリスト教史の最初期から語られたり考えられたりしてきたものであると言えるかもしれません。しかし、ここで奇妙なことがあります。それは、この条項には聖書的な根拠がほとんど見つからないし、あっても一つくらいであるということです。

そのためわたしたちは、初代のキリスト者たちがはたして本当にそのようなことを考えていたのかどうかについて確信をもって語ることができません。また、当時の人々が「イエスは地獄もしくは死者の世界へと降りた」と言ったとき、それは元々どのような意味で言ったことなのかということについても確信をもって語ることができません。そのため、長い歴史の中では実に様々な異なる理解が生まれてきました。

あえて言いますが、この教えはキリスト教信仰の中では異様で奇妙な要素です。しかし、ほんのわずかな時間でもこの条項の意味を勉強した人はこの条項がだんだん好きになります。このイメージ豊かな表現の中に価値ある思想が集約されています。それを一言でいいますと、「陰府に下り」の条項はキリストとこの方の救いのみわざとが持っている絶対性と普遍性とを言い表しているものであるということです。

この根本思想はこの条項のキリスト教的な解釈史の中に繰り返し登場するものです。多くの人が考えついた解釈は、たとえば次のようなものです。それは、イエスはその死において墓から出られ、旧い契約の下で信仰をもって死んだ先祖たちが住んでいる死者の世界に行かれたのだという解釈です。キリストがそのようになさった目的は「今や贖いのみわざは成就した」という知らせを先祖に伝えるためであり、贖いの成就ゆえに先祖たちを死者の世界から天国へと移し入れるためです。この思想が示していることは、キリストの贖いのみわざには絶対性と普遍性があるということです。キリストの贖いのみわざは歴史の中で繰り返されるものであり、彼らを救いに導く意義と力とにおいて旧約時代の信仰者たちにも有効であるということです。

もう一つの解釈はさらに一歩先に進んでいます。それは、キリストは死者の世界にいる貞節を守って死んだ異教徒たちにも語りかけられるのだという解釈です。この解釈を採る人々は、キリストが来られる前にイスラエルに属さない者として神の言葉も福音も一度も聞かずに生きたすべての人々の身に永遠の次元において起こらなければならない出来事は何なのかという厳粛な問いの前に進み出るのです。キリストが来られる前にイスラエルに属さなかった人々は特別啓示の光の外側にいた人々です。しかしイエスの陰府下りによってその光がその人々にも及んだのです。だからこそキリストの救いは普遍的なのです。最終的にはすべての人に救いの御手が伸ばされるのです。だからこそキリストの救いは絶対的なのです。すべての人にキリストの救いは必要であり、キリストとこの方のみわざの外側に留まったままで祝福された状態に無い人々にも必要なのです。

何人かの人はさらに一歩先に進んでいます。彼らはキリストは憐れみ深い方であると語ります。憐れみ深いキリストは、「救い」なる出来事が何らかの仕方で起こることを知りながら「救い」を拒絶した人々のもとにも行かれたのだと語るのです。この解釈の場合には、陰府下りの条項の持つ意味は、すべての人はたとえ地上でどんな生き方をしようとも死んだ後になってからでも救われる機会を得ることができるということになります。これは多くの人々にとって、とくに魅力的な思想です。しかしわたしたちがよく考えなければならないことは、この思想は地上的で時間的なわたしたちの生から最後の真面目さを奪い去るものではないかということです。永遠的な価値をもつ祝福でさえ、地上の生以上の価値を持っているわけではないのです。

言葉の使い方を変えて来る人々もいます。彼らが真剣に考えることは、キリストに結ばれて生きたがキリストの再臨の前に死んだ人々の運命はどのようなものかということです。この人々がキリストの陰府下りを告白するときの意味は、キリストは死んだ状態にある人々のところにも来てくださったし、死んだ状態から救い出された人々のところにも来てくださったというものです。

「キリストが死者の世界の中へと降りて行かれたので、他のだれもそこに行く必要がない」という思想がありますが、これもまた同じことが別の言葉で言い換えられて繰り返されているものです。その解釈によるとキリストはいわば棄てられたのです。そしてキリストはわたしたちの代わりに死者の世界に行かれたのです。そのようになさることによってキリストはわたしたちのために御国を用意してくださったのです。キリストの救いの力がわたしたちの死に至るまで刺し貫かれているのです。わたしたちは死に至るまで祝福の状態のうちに保たれているのです。救いの御手はわたしたちの死にまで伸ばされているのであり、だからこそ絶対的なものであり、だからこそ普遍的なものなのです。

この見方は、とくにルターとカルヴァンとがこの陰府下りの条項に見出した意味に近いものです。しかし、改革主義(プロテスタント)の人々の中にもいろいろと変形した解釈が現れてきました。

その中に、陰府下りの条項は「イエスが墓に葬られた」というのとほとんど同じ意味であるとする思想があります。この思想は、イエスの陰府下りは過去にただ一度だけ起こった深刻な出来事であるという点を強調するものです。イエスは完全に死者の状態になられたのです。そのときイエスは死の極みにおられました。そのため何人かの人々は、「死者の世界」(dodenrijk)という美しい言葉を使うべきでなく、「地獄」(hel)という恐ろしい言葉を使うほうがよいと主張します。イエスは死を十分に味わわれたのです。この杯を最後の一滴まで飲み干されたのです。「陰府に下り」とは、イエスのへりくだりの極まった姿であり、それによって人間存在のあり方が正されるのです。イエスはわたしたちと神との仲保者であるお方として陰府の中に入って行かれたのです。それは、罪の罰と神の怒りを最後まで担い抜いてくださるためでした。

この思想がさらに変化したものがカルヴァンからハイデルベルク信仰問答に受け継がれています。それは次のように説明されます。「陰府に下り」という条項がキリストの受難と死に関するいくつかの条項の最後に置かれているのは、この条項がキリストの受難と死に関する真理を端的に要約しているからです。「陰府に下り」とは、キリストが特に十字架の上で神から完全に見棄てられたあの体験を指しているのです。キリストは地獄のような不安と恥辱の中で苦しまれたのです。キリストは完全に棄てられたのであり、すべての恥をお受けになりました。キリストは絶望の極みの中に沈んで行かれたのです。キリストはあらゆる恐怖の中で、存在が神の御前から離れて堕落している状態とはどのようなものであるかを、身をもって体験してくださったのです。

他方、ルターとルター派の人々は、全く異なる解釈をとります。彼らの説明によると、陰府下りとはキリストのへりくだりの最終段階ではなく、むしろキリストの高挙(すなわち復活)の第一段階です。それは、いうならばキリストの高挙の出発点です。イエスが地獄の中に降りてくださったのは、悪魔とその子分たちと、すべての悪魔的な存在と堕落した天使たちと、すべての悪の諸霊たちとに、激しく恐ろしい裁きの説教を告げ知らせ、裁きを行ってくださることによって、その者たちに打ち勝ってくださるためでした。

ここにも非常に魅力的な思想があります。この解釈によりますと、仲保者であり救い主であられるこの方は、地獄や悪魔や死、そしてあらゆる形の破滅に勝る力を持っておられるのです。この方はすべての悪魔の支配勢力を転覆させることがおできになるし、実際に転覆なさったのです。神が創造なさったこの素晴らしく美しい世界の現実を、悪魔の支配の下から完全に解放してくださったのです。そのときキリストとこの方の贖いのみわざが持っている絶対性と普遍性は、万物を包括しうる広さの限界点に達しているのです。

このように、この信仰箇条の解釈には多くの可能性があります。この問題についてもキリスト教は非常に分裂した状態にあります。しかし私は、この分裂状態をあまり気に病む必要は無いと感じています。それぞれの解釈は多少なりとも似ていないでしょうか。この条項に込めることができるすべての意味は、真理の諸側面を言い表しているのではないでしょうか。わたしたちはさまざまな解釈を一枚の多彩なパレットの中に統合することができないでしょうか。いずれにせよ、この異様な信仰箇条と共に告白するすべての真理は、わたしたちの心を温め、幸せにする力を持っていないでしょうか。この奇妙な信仰告白の断片は、わたしたちにとって価値ある宝物にすることができるものであると、私には見えるのです。

【解説】

これは日本語版では『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信条』という題がつけられている使徒信条の黙想『われ信ず』(ik geloof, 1968)の一部分です。オランダ語版から訳しました。いま流行の「超訳」ではありませんが、耳で聞いて分かる訳を心がけました。

内容は「陰府(よみ)に下り」の解釈です。この部分の全部を訳す時間的余裕がありませんので途中までです。しかしこれだけでも日本語版の192ページ以下と読み比べていただくと、非常に大きな違いがあることを理解していただけると思います。オランダ語版からの訳とドイツ語版からの訳ではこれほどまでに違いがあるということを理解していただきたくて、訳しました。

ただしこの違いは底本の違いによるものです。日本語版はドイツ語版からの重訳ですが、ドイツ語版には忠実な訳ですので日本語版訳者を責めるつもりはありません。しかし、このドイツ語版(翻訳)がオランダ語版(オリジナル)から大きくかけ離れているのです。

私にとって最も気になることは、ドイツ語版訳者が行っている、かなり恣意的と思える取捨選択や拡大解釈や敷衍です。

たとえば最後の段落の「キリストが死者の世界の中へと降りて行かれたので云々」以下の部分は明らかにカール・バルトの立場を言っています。しかしこの段落はドイツ語版からは全く削除されているので、日本語版も一蓮托生です。

そして拙訳をよくお読みいただけばお分かりいただけることは、ここでファン・ルーラーはバルトの立場を肯定しているのではなく批判しているということです。二段落前の「これは多くの人々にとって、とくに魅力的な思想です。しかしわたしたちがよく考えなければならないことは」以下に書かれていることがバルトの立場にも当てはまるのだと、ファン・ルーラーははっきり語っているのです。

ところが、この点をドイツ語版は削除しています。この削除の意図は不明ですが、ドイツ語版の訳者ハインリヒ・クヴィストルプは『カルヴァンの終末論』などで有名であり、かつ「カルヴァンをバルト主義の立場から解釈した人」であることでも有名です。ファン・ルーラーがバルトのあらゆる主張に対して批判的であるということをドイツ語圏の人々に知らせたくないという意図でもあったのではないかと勘繰りたくなります。

さて、この黙想の後半部分は、読んでくださる方々の中に「ほっとする」という感想と「がっかりした」という感想との両方が出てきそうだなと思いながら訳しました。

がっかりさせてしまいそうな要素があるとしたら、「陰府に下り」についてのファン・ルーラー自身の解釈が、どこにも示されていないように読めてしまう点です。いろんな説を紹介して、それなりに評価と批判をして、最終的に自分の立場は何かを明らかにしないままで、煙に巻いて逃げているという感想がありうるだろうと思いました。

しかし私は、(悪口を言いたい人たちからは「優柔不断」とも批判されかねない)ファン・ルーラーのこのような態度を肯定的に評価したいと思っています。

前半部分でファン・ルーラーが語っているとおり、使徒信条における「陰府に下り」の条項は聖書的な根拠に乏しいため、その真意は何かを確信をもって断言することができず、それゆえ教会史の中にも多種多様な解釈例が現れてきました。そのような中でファン・ルーラーは「断言できないことについては断言しない」のです。こういうところがファン・ルーラーの偉大さなのです。

ファン・ルーラーはオランダの改革派教会の神学者なのだから「カルヴァンがこう言った」とか「ハイデルベルク信仰問答にこう書いてある」となれば当然それをそのまま鵜呑みにして支持するのだろうなどと予想しながら読むと、当てが外れます。聖書的根拠に乏しい教理については軽んじてもよいと主張するわけでもありません。「聖書」と共に「伝統」を重んじようとするのです。

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