「10年後の」民主党に期待します(5)
それでは、我々教会の者たちが反省すべき点は何でしょうか。
私が考えさせられているのは、御仁がしたような「キリスト教とイスラム教は○○だ」という十把ひとからげと同じような「仏教は○○だ」「神道は○○だ」という括り方の乱暴さです。
それはちょうど、数年前に再流行した血液型占いのようなものです。「O型の人は○○だ」「A型の人は○○だ」「B型は○○だ」「AB型は○○だ」。まるで60億人のキャラクターがたった四種類しか存在しないかのようです。これは危ない。
しかし、このような仕分けを、なるほどたしかに、一度ならずキリスト教会自身もしてしまったことを否定できません。
たとえば、19世紀末から20世紀初頭にかけてオランダで活躍した改革派神学者アブラハム・カイパーがその著『カルヴァン主義』(Calvinism)に採用した方法は、いわば全世界の思想を「異教主義」「(ローマ)カトリック主義」「ルター主義」「カルヴァン主義」の四種類に区別したうえで「カルヴァン主義」の偉大さを説明するというものでした。
私自身はカイパーを「大衆扇動者」呼ばわりするつもりはありませんが、この種の議論をキリスト教会自身が続けるかぎり民主党の御仁に言い分を与えてしまうことになりかねません。
ちなみに、カイパーが『カルヴァン主義』で行った議論は、ドイツの宗教社会学者マックス・ヴェーバーやヴェーバーの友人だった神学者エルンスト・トレルチのお気に入りのところとなり、とくにヴェーバー経由で日本の碩学たちに受け継がれてしまっているものでもあります。ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はカイパーの議論なしには成り立たなかったものであると断言できます。
このように申し上げている私は、カイパーの議論の「危険さ」を指摘している以上、ヴェーバーやトレルチの議論も「危険」であると申し上げているのです。両者は一蓮托生の関係にあると言えます。
その意味では、日本においては「神学」や「キリスト教学」よりも(その外見上の「学術的客観性」ゆえに)はるかに好意的に評価されてきた「比較宗教学」や「宗教社会学」も、一定の役割があることを理解してはおりますが、そのうえでなお「きわめて危険である」と言わざるをえません。
宗教を「理念型」によって仕分けることは、国家権力者による宗教団体の「管理」を確保する方法であると思われます。しかし彼らに「できること」と「できないこと」、あるいは彼らが「してもよいこと」と「してはならないこと」があるということを、我々教会の者たちとしては、はっきり伝える必要があるでしょう。
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