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2009年10月 2日 (金)

「しっかりと考えるときは誰でも母語で考える」

「自分の経歴を理想化している」と見られるようなことを書くと、ただひたすら失笑を買うだけであることは、目に見えています。

が、経験者にしか語れないこともあるに違いないと信じて、勇気を出すことにします。

県立普通科の高等学校を卒業してすぐに「東京神学大学」に入学し、そこで6年の時を過ごしました。また「神戸改革派神学校」にも聴講生として2か月半、そして二年次編入者として1年3か月在学し、卒業しました。

「東京神学大学」はTokyo Union Theological Seminaryと言い、「神戸改革派神学校」はKobe Reformed Theological Seminaryと言い、外国人から見れば両者は同格のSeminary(にすぎない学校)であり、それこそ外国人から見ると「大学(University or College)を卒業していない」と判断されても仕方がない経歴の持ち主でもあるわけですが、それはともかく。

私自身は、合計約7年半のあいだSeminaryというトポスに身を置くことができたことこそが、説教者としての今日の働きにとって大きな意味を持っていると今でも確信しています。私のような飲み込みの悪い人間には7年半でも少なすぎるくらいです。実際、いまだに書生のようなことを続けています。先輩たちから「関口くん、あんたはいつまでそんなことをやっているつもりなんだい?」と言われながら。

「学歴」とか「学位」の話をしているのではありません。そのように受け取られるとしたら私の意図に完全に反しています。上記のとおり私の経歴にはUniversityもCollegeも登場しませんので「学歴」という点では全くお話になりません。高卒で芸能界に入った人々に(ほんのちょっとだけ)似ているかもしれません。

むしろ強調したいことは、時間の長さです。しかも、(あえて嫌われることを書きますが)「日本国内の」Seminaryに身を置くことができた長さです。

翻訳家の山岡洋一氏が「翻訳通信」(PDFマガジン)の最新号に書いておられたことに、とても励まされました。

「問題は、英語をしゃべるかどうかではない。何をしゃべるかなのだ。英語で中学生か高校生程度のことをしゃべるよりも、日本語でしっかりした発音をして、英語は通訳に任せる方がはるかにいい。この当たり前のことをしっかり確認しておくべきだ。何をしゃべるかが問題だと気づけば、しっかりと考えておくことがいかに重要かが分かる。しっかりと考えるときは誰でも母語で考える。英語で考えるべきだという人がいるが、不自由な外国語を使えば、幼稚なことしか考えられない。だから、母語で、日本人なら日本語で考える。」

これも「嫌われること」であることは重々承知のうえであえて書くことですが、日本の牧師たちの中に、「日本国内の」Seminaryと名の付く場所に2年とか、3年3か月とか、長くても4年「程度しか」身を置いたことがない人々が多いと思われることと、「なんとか的」という(それ自体はほとんど意味不明の)アヤシゲな概念用語で煙(けむ)に巻こうとする人々が少なくないと感じられることとが無関係ではないようだという気がしてなりません。

一つの概念の意味を「母語で」しっかりと考え抜くこと。しかも、独学の自我流や無手勝流ではなく、特定の(優れた)教師のもとで習うこと。しかも、かなり長期にわたって、特定の指導教授のもとにあることが、よりふさわしい。

そのようにでもしないかぎり、一つの概念の意味を多くの人の前できちんと「母語で」説明するという基本中の基本のことでさえ困難であり、おそらくは不可能なのだと思われてならないのです。

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