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2009年9月

2009年9月30日 (水)

嫌いな言葉(1)

「嫌いな人」について書きましたので、「嫌いなシリーズ」をもう少しだけ続けてみようかと思いました。

大の字をつけたいほどの「嫌いな言葉」があります(「大嫌いな言葉」だということです)。それは否定的なニュアンスで用いられる「人間的な」という形容詞です。

この形容詞が用いられて繰り出されるトークは、「教会」という枠組みの外側に(生まれてこのかた一度も)出たことのない人間としては、数えきれない頻度で聞いてきたものです。「教会用語」と呼んでもよさそうなものです。

それは教会の公の発言や文書(語られた説教や書かれた説教を含む)の中だけではなく、ごくさりげない日常会話の中にも頻繁に用いられます。

たとえば、

「そのような考え方は、はなはだ人間的な考え方なのであります。しかしながら、神の御心とはそのようなものではないのであります」というふうに語られます。

あるいは、

「前々からのぞいてみたいと思っていたあの教会に、このあいだ機会あってやっと行ってみたけど、雰囲気が人間的で嫌だった。もう二度と行きたくない」というふうに語られます。

まるで、そういうふうに語っている人自身は「人間」ではないかのようです!

教会の理想形は、そこに一人も「人間」なる存在がいなくなることであるかのようです!

「救われる」とはすなわち「人間でなくなること」「人間をやめること」であると言われているかのようです!

「人間が人間的である」とは、字面を見れば疑いなく「人間=(イコール)人間」と言っているだけのことです。いわば人間の自己同一性(アイデンティティ)を表現しているだけのことです。それ以上でも、それ以下でもありません。

しかし私は、「それは人間的な○○である」という言葉を否定的・糾弾的なニュアンスで用いる人々の言葉を、ほとんどの場合、黙って聞いています。

「ちぇ人間で悪かったね!」と苛立ちますし、「人間が『人間的』であってどこが悪いのさ?」と内心で毒づいていますし、「またか」と閉口しますが、まさに「閉口」するのであって、面倒くさいことになるということがあらかじめ分かっていますので、あえて反論はしないことにしています。

なぜなら、その人々の多くは「熱心な」信仰の持ち主だからです(私自身の信仰も「熱心」であるとは思っていますが)。

その人々の場合「人間的な」という形容詞がなぜ否定的なニュアンスになってしまうのかというと、常に必ず「神との比較」という観点が持ち込まれているからです。

基本の部分に「パーフェクトな神と比べて人間はアンパーフェクトである」という《比較》のロジックがしっかりと埋め込まれているので、その人々の口から出てくる「人間的な」を否定的に発音するあの言葉づかいは、まるでバッティングセンターのピッチングマシーンのように同じ場所から・同じ球速で・同じ角度で、何度でも繰り出されることになるのです。

あるいは、「金太郎飴」と言ってもよいわけですが・・・金太郎飴って最近見たことがないのですが、まだ売っているのでしょうか。

しかし、そもそも「神」と「人間」は《比較》してよい関係なのでしょうかね(?)という点に根本的な疑問を感じます。我々にとって「比較にならない」存在のことを「神」とお呼びするのではないでしょうか。

「神と比べて人間は・・・」なんて言われても、何か説得力ありますかね(?)と首をかしげるばかりです。

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2009年9月29日 (火)

慶應義塾大学『三色旗』でファン・ルーラーを紹介しました

このたび慶應義塾大学出版会から出版された同大学通信教育部の補助教材『三色旗』第739号(2009年10月号)にファン・ルーラーに関する拙文が掲載されました。同誌の特集「オランダ―小国から見えてくるもの」に関する記事として水島治郎先生(千葉大学大学院人文社会科学研究科教授)と田上雅徳先生(慶應義塾大学法学部准教授)と私の文章が載りました。各タイトルは以下のとおりです(掲載順、敬称略)。

『三色旗』第735号(2009年10月号)目次

巻頭言                                                   1

特集 オランダ―小国から見えてくるもの                田上雅徳 2

「パートタイム社会」という実験                       水島治郎 3

オランダの戦後復興を支えた声
 ―プロテスタント神学者A. A. ファン・ルーラーの「ラジオ説教」― 関口  康 8

世俗化の紡ぎ出され方                                 田上雅徳 13

(以下略)

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オランダ紀行の続きを書き始めています

とにかく完全に忘れてしまわないうちに少しでも書きとめておかなければすべてが無駄になってしまいますので、「オランダ紀行」の続きの部分を書き始めています。まだこれから書き加えていくことになると思いますが、とりあえず今日は下記の部分を書きました。思い出すことと書くこととで脳と指先が(目も肩も腰も)疲れましたので、一休みします。

■ オランダ紀行 神学者ファン・ルーラーの足跡を訪ねて(2008年12月8日~12月12日)

2008年12月11日(木)

カンペン
クバート
フラネカー
フローニンゲン
石原知弘先生

2008年12月12日(金)

ユトレヒト大学図書館

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2009年9月28日 (月)

「オランダ紀行 神学者ファン・ルーラーの足跡を訪ねて(2008年12月8日~12日)」の画像を公開しました

Schipol02_3記憶がかなり怪しくなってきていることもあり、昨年12月のオランダ旅行の報告文の続きを書くことになるべく早く取り組まねばならないと焦っています。今年の前半とにかく多忙を極めていたことに加えて、先般のパソコンクラッシュによって喪失したデータの中にオランダ旅行に関する部分(写真類を含む)がかなり多くあったことで意気消沈していたことが、旅行記執筆の続行を困難にしていた大きな原因でした。

しかし、私の弱い脳内で溶解させてしまってはせっかくの好機に得た情報を無駄にしてしまうことになります。不幸中の幸いは、旅行のすべてに同行してくださった石原知弘先生(写真左。日本キリスト改革派教会教師、現在アペルドールン神学大学修士課程在学)が私よりもはるかに明晰な記憶と写真類のデータを保持してくださっていることです。

このたび石原先生から写真を送っていただくことができました。文章は後から書くとして、とにかく写真だけを公開することにしました。

なお、「付録 オランダの風景」に付した写真は、松戸小金原教会の前任牧師、澤谷 實(さわや みのる)先生が2001年2月にオランダを旅行なさったときにお撮りになったものです。澤谷牧師は2002年7月に55才で亡くなられました。

■ オランダ紀行 神学者ファン・ルーラーの足跡を訪ねて(2008年12月8日~12月12日)

2008年12月8日(月)

アムステルダム

2008年12月9日(火)

ユトレヒト
ヒルファーサム
アムステルダム中央駅

2008年12月10日(水)

国際ファン・ルーラー学会
スピーチ全文

2008年12月11日(木)

アペルドールン
カンペン
クバート
フラネカー
フローニンゲン
石原知弘先生

2008年12月12日(金)

ユトレヒト大学図書館
ライデン
アムステルダム
スキポール

付録

オランダの風景

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2009年9月27日 (日)

嫌いな人

こういうことを字に書くのは、記憶に間違いが無ければ、生まれて初めてのことです。本邦初公開(?)です。

私には「嫌いな人」がいます。ただし、特定の誰かのことを言いたいのではなく、「嫌いなタイプの人」のことです。

それは「脅迫する人」です。

私は本来、冷たい人間です。近くにいる方々は、多かれ少なかれ、私からそのようなものを感じるはずです。すぐバレるような、露骨な冷たさがあります。「岡山県人」であることもいくらか関係している可能性があります。

私の持っている「冷たさ」の中身は「私は誰をも支配しないし、支配したくない。しかしその代わりに、誰からも支配されたくない」という打ち消しがたい感情に根ざしています。オランダ人にも、これに近い感情があるらしいと聞いたことがありますが、定かではありません。

ともかく他人との距離の取り方がかなり遠いほうであると、自覚しています。

しかし、「脅迫する人」はしばしば、決して入られたくない距離に土足で踏み込んできます。これが困る。

しかも、本来他人との距離をかなりとっていると自覚している私を「脅迫」する人の多くが取る方法は、逆説的ではありますが、「辞める」という方法です。

我々の仕事の本質部分に「団体運営」という側面がありますので。

「辞める」という仕方での(一種独特の)脅迫を受けやすい立場にいると自覚しています。

困ってしまうのは私が本来冷たい人間であるということです。

その意味は、「辞める」という仕方での脅迫が実は全く通用しない人間であるということです。私相手に「辞めるカード」を突き付けても、暖簾に腕押し、ぬかに釘です。「どうぞご自由に」と言いそうになります。もちろんそんなことはその人の前では口が裂けても言いませんが。

私はかつて「辞めた」人間です。重大な決意をもって「離脱」しました。それゆえ私自身には「辞める」と言い張る人々を引きとめる力も資格もありません。

しかし、どうか誤解なきように。

私は、あの「離脱」によって、誰をも脅迫していません。私の「離脱」によって脅迫を感じた人は一人もいなかったはずです。

なぜなら、これは断言できますが、当の本人がそのような意図を全く持っていなかったからです。他ならぬ私自身が、幼い頃から今日に至るまで、「辞任」や「離脱」(という言葉)を《脅迫のカード》として利用するというようなやり方を最も忌み嫌う種類の人間だからです。

特定の誰かのことだと思われると困るのですが(誰から聞いたか忘れてしまいました)、これまで耳にしてきた中でいちばん不愉快に感じられた《論理》は、「わが教会は『あのリベラルな』教団から離脱して作られたものである。それゆえ、もし今後わが教会がリベラルになっていくならば、そのときはこの私が離脱するのみである」というものです。

そのような《論理》(聞いているとため息が出る三段論法)を、自分自身の体と心で現実の「離脱体験」をしたことがない(または「なさそうな」)人の口から聞くと、私には耐えがたいものがあります。

ただし、その場合には、「どうぞご自由に」とは思いませんし、言いません。「やれるものならやってみろ」とも思いませんし、言いません。

「離脱経験者」である私には何かを語る力や資格はありませんし、その人の前に立ちふさがって張れるほどの頑強な体もありません。

できるのは、「辞めないでください」と泣きながら訴えることくらいです。

しかし、その人の服をつかんで引っ張ることまではできない。実際に辞められた後、泣き寝入りするばかりです。

ここまで書いてきて、「嫌いな人」とは私自身のことのような気がしてきました。

「泣き寝入り」も脅迫の一種だと考えるとすれば。

「誰をも支配したくない代わりに誰からも支配されたくない」という感情も離脱行為の一種だと考えるとすれば。

自己嫌悪のかたまりです。

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2009年9月25日 (金)

Facebookのファン・ルーラーのプロフィールを更新しました

フェイスブック(Facebook)の「Arnold Albert van Ruler」のページの中にあるファン・ルーラーのプロフィール(ホームページ、自己紹介、趣味・興味)を以下のように書きました。字句修正をアメリカの友人Tim Hawes氏が引き受けてくださいました。

N118410887796_4263_2Arnold Albert van Ruler (Facebook)
http://www.facebook.com/pages/Arnold-Albert-van-Ruler/118410887796

Arnold Albert van Ruler

ホームページ:
http://www.aavanruler.nl

自己紹介:
I was born in Apeldoorn, Netherlands, on 10 December 1908. After graduating from the Gymnasium Apeldoorn and the University of Groningen (Rijksuniversiteit Groningen), I became a pastor of the Dutch Reformed Church (Nederlandse Hervormde Kerk). I served at two local churches (Kubbard and Hilversum). After World War II, in 1947, I became a professor at Utrecht University, Faculty of Theology (Rijksuniversiteit Utrecht, faculteit van Godgeleerdheid). During my lifetime, I wrote many books and essays. The publication project of my new Collected Works (Verzameld Werk) started in September 2007.

趣味・興味:
I love Soccer (playing and watching) and Billiards.

'We need to enjoy our life itself more than to ask the meaning of our life.' (A. A. van Ruler)

まだ始めたばかりのSNSです。ご関心のある方は仲間に加わっていただけると嬉しいです。しかし、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)というものが神学研究においてどのように使用しうるかを試験している段階ですので、参加を強制・強要するような気持ちは全くありません(ある程度のパソコン能力がないと、「重荷」を増やしてしまうだけかもしれません)。

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2009年9月23日 (水)

人生の意味を問うことに意味があるか

オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』第三巻(2009年)の中から「人生の意味を問うことに意味があるか」(1969年)を翻訳し、インターネット版「ファン・ルーラー著作集」で公開しました。文中の「ドストエフスキーの忠告」の引用元はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』ですが、日本語版(原卓也訳)のどの個所かを分かるようにしておきました。

○ファン・ルーラー著「人生の意味を問うことに意味があるか」(PDF版)の取得方法

(1)インターネット版「ファン・ルーラー著作集」のトップページを開きます。

(2)トップページの「ブーケンセントルム版『ファン・ルーラー著作集』」の「各巻目次」の「第三巻(2009年)『神、創造、人間、罪』」のリンクをクリックすると「第三巻目次」が出てきます。

(3)「第三巻目次」の中の「人生の意味を問うことに意味があるか」というタイトルがリンクになっているので、そこをクリックすると、PDF版のダウンロードが始まります。

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2009年9月21日 (月)

今週の説教 メールマガジン

「今週の説教」をメールマガジン形式で配信しています(説教の内容はウェブ版「今週の説教」と同一です)。もちろん無料で、どなたでも登録していただけますので、以下の注意事項をご覧のうえ、お気軽にご登録ください。

(1)メールマガジン配信の目的は、聖書のみことばを多くの方々に伝えること、教会の礼拝の様子をお知らせすることです。

※メールマガジンがウェブ版「今週の説教」の更新通知(新しい説教掲載のお知らせ)にもなります。

(2)配信責任者である関口康は、どなたがこのメールマガジンの購読登録をしてくださっているかを、基本的に全く把握していません。

※ただし、「読んでいます」とご連絡いただいている方もおられますので、「全く把握していない」と言う場合、その方々のことは含まれていません。

(3)配信作業はすべて関口康本人が行っています。第三者の手は一切介しておりません。

※「第三者」には松戸小金原教会の会員や役員、また関口康の家族を含んでいます。

(4)ご登録いただいたメールアドレスにメールマガジン以外を配信することはありません。

※説教以外の情報を提供するために「号外」を配信させていただくことはあります。

(5)登録していただいた方々に、関口康本人から私信をお送りすることもありません。

※私信のやりとりをご希望の方には、ご連絡に応じて別途お送りしています。

(6)ご登録いただいたメールアドレスを別の目的に流用したり、第三者に公開したりすることは決してありません。

※「第三者」には松戸小金原教会の会員や役員、また関口康の家族を含んでいます。

配信を希望してくださる方は、以下をクリックして手続きしてくださいますようお願いいたします。「登録(または解除)の手続きの方法が分からない」とお困りの方は、関口康本人にご連絡くだされば当方で手続きを行わせていただきます。

メールマガジン配信登録(または解除)
http://groups.yahoo.co.jp/group/e-sermon/

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2009年9月18日 (金)

牧師たちよ、神学せよ!

昨日のことですが、東北在住の私より一世代若い牧師を励ましたい一心で、その彼に以下のメールを送りました(ブログ公開用に若干修正しました)。

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日本基督教学会に「日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師」として登録させていただいた動機の中に、《教会》ならびに《教会的実践》というものを必ずしも重んじようとしない「日本のキリスト教界」への挑戦的意図が全く無いと言えば嘘になります。

あくまでも一例としてですが、現在のキリスト教界を代表する「新聞」の社説を書いている数名の人々はすべて「○○大学教授」という肩書を持っています。そのような人々が意図的に選ばれています。もちろん、中には「牧師」をしながら「教授」をしている方々もおられます。しかしその様子はまるで、もはや「牧師」にはキリスト教について公に語る資格が与えられていないかのようです!「牧師」という肩書はこの世においては通用しないので隠しておくべきであるとでも諭されているかのようです!

学位(とくに博士号)のことも、私もかつては新型インフルエンザにでもかかったかのようにひどく魘(うな)されていた時期がありました。インターネットが手に入り、いろんなことを調べているうちに、欧米では学位をもたない(ただの)「牧師」(に過ぎない者)の発言が重んじられていない事情があるということがだんだん分かってきました。留学経験者たちの多くが欧米かぶれになってしまうことは仕方ありません。

しかし、日本は違います。そもそも日本の学校制度は欧米とは根本的に違います。日本では学位は不要です(たとえば、教会の集会チラシの講師プロフィール欄に「神学博士」と書いたところで新来者が増えるとは思えません。たとえそれが「哲学博士」でも事情は同じです)。日本では学位が問題なのではなく、ちゃんと勉強しているか、そして何を語りうるかが問題なのです。

私の推測は「大学教授になったが最後、その先の研究生活は著しく困難になるであろう」ということです。彼らの多くは学内行政と学生募集に明け暮れています。彼らの研究室に山積みになっている書類はその種のものです。

もちろん、勉強など全くしない牧師がたくさんいることくらい私も知っています。しかし大学教授と比較してみたとき、牧師の研究環境が劣っているとは言えません。むしろ、かなり優っていると言うべきです。まして、「神学」ないし「キリスト教学」に関して牧師よりも大学教授のほうが多く何ごとかを知っているということはありえないと信じたい。

牧師と大学教授の違いを強いて挙げるとしたら、大学教授たちは研究費や出版費用の面を学校に頼ることができる分、(たとえどんなに稚拙な内容でも)ハードカバー付きの(外見上)「立派な」本を書店に並べることができることくらいです。あとは、学者となった自分を長年苦労して育ててくれた親を喜ばせることができることくらいでしょうか。

しかし、この点についても考え方一つです。「牧師」にはお金が無い。自前の紀要も無ければ単行本の出版費用も無い。しかしだからこそ、いろんなところに自分の書き物を売り込んでいくことができます(「売れ」ませんが)。自分自身は支払うことなく、いろんな雑誌や共著を通して発表の機会を得ることができます。いえいえ、それだけでなく、「牧師」である者たちはブログだメールだで何でも自由に書くことができます。「大学教授」は、大学機構という大きなバックを下手に抱え込んでいる分だけ様々な制約を受け、自分の発言が思うようにできなくなっています。

私がいろんな場所に書き散らしてなるべく露出度を高めようと考えているのは、もしこれを“売名行為”であると見られるなら無理に否定しませんが(何とでも言ってくださいなという気持ちです)、それ以上の意図があります。

「(ただの)牧師(に過ぎない者)であることを恥じるな」と、声を大にして日本の牧師たちに言いたい。ただそれだけです。

「学位と(世に通用する)肩書きが人の価値を決めるのではない」ということを立証したい。ただそれだけです。

「神学」であれ「キリスト教学」であれ、それは本来「教会のもの」なのだと激しく訴えたい。ただそれだけです。

共にがんばりましょう。

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2009年9月14日 (月)

「ファン・ルーラー著作集」の「はじめのことば」

これまで「ファン・ルーラー研究会」のホームページとして公開してきたアドレス(URL)を、これからは関口の個人用に使わせていただくことにしました。新しいタイトルは「ファン・ルーラー著作集」としました。

ファン・ルーラー著作集
http://vanruler.protestant.jp/

このタイトルの意図や新規サイトの目的については、トップページ(ようこそ)の「はじめのことば」に書かせていただきました。

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はじめのことば

関口 康 (日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)

「ファン・ルーラー研究会」(1999年2月20日結成)と共に日本語版『ファン・ルーラー著作集』の刊行を目指して日夜努力してきました。翻訳も出版も全く未経験で、何の知識も無い状態から出発しました。多くの方々のご協力とご指導をいただきながら、少しずつ少しずつ前進してきたつもりです。

しかし、まだ思うような形になりません。そもそも「ファン・ルーラー」の名前が日本では依然としてほとんど知られていないため、いきなり訳書を世に問うてもただ無視されるだけであることは目に見えています。翻訳作業と同時進行でこの人物の生涯と神学思想をさまざまな角度から紹介し、興味を抱いていただくことにも取り組まなくてはなりません。そんなことをしているうちに10年という歳月が経過してしまいました。焦る気持ちを抑えながら地味に地道に、良質の翻訳を目指して頑張っています。

インターネット版を公開する意図は、ひとえに翻訳者の「弱さ」にあります。完成品を読んでいただくほうがよいに決まっています。しかし、翻訳を生業にしておられる方々ならばともかく、私の場合は牧師の仕事の傍らで続けていることですので、翻訳のほうは断続的な作業しかできません。そして、一冊の訳書が仕上がるまでがきわめて長期にわたるため、たとえ断片的なものであっても何らかの公開の場を持たないかぎり道半ばでくじけてしまいそうになります。私の切なる願いは「みなさま、この弱い者をどうか励ましてください」ということです。

インターネット版「ファン・ルーラー著作集」に「ファン・ルーラーを独占したい」などの意図は一切ありません。この稀有な神学者は誰にも独占されたがらないでしょう。目標は日本語版『ファン・ルーラー著作集』なのです。多くの方々との一致や協力なくして、どうして実現できましょうか。私はこの夢を実現するために必要なすべてのことを考えていきたいと願っています。

ここに掲載するすべての文章は、関口康による試案であり、提案であり、その意味での「未完成品」です。そのようなものであるということをぜひご理解ください。予告なしに記載内容の変更・修正を加えていきますので、本サイトのどの部分についても引用等はなるべくお控えください(必要な方は必ずご連絡ください)。よろしくお願いいたします。

2009年9月14日

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2009年9月11日 (金)

『福音と世界』座談会に登場

新教出版社の看板雑誌である『福音と世界』誌の最新号(2009年10月号)の特集記事「座談会 今カルヴァンをどう読むか」に、田上雅徳氏(慶應義塾大学法学部准教授)と私、関口康、そして芳賀繁浩氏(日本キリスト教会豊島北教会牧師)(以上、発言順)が登場します。

この三人(プラス司会者)の座談会は、今年8月1日、東京・新宿の新教出版社本社ビルの一室で行いました。

『福音と世界』は定価600円(税込)です。近くのキリスト教書店でお求めになれます。

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新訂版『ファン・ルーラー著作集』第三巻、やっと配本

2007年から毎年一冊のペースで配本されている新訂版『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)の第三巻がようやく配本されました。出版社が公表した最初の計画表では昨年12月10日の「国際ファン・ルーラー学会」(アムステルダム自由大学)に間に合うはずだったのですが、8か月遅れとなりました。編集者や出版社を責めるつもりはありませんが、首を長くしすぎて肩がこりました。しかし、ともかく出ましたので、一安心です。

第三巻(2009年)のテーマは「神、創造、人間、罪」(God, Schepping, Mens, Zonde)。さあ、いよいよこれから神学の本論に突入です。第一巻(2007年)のテーマは「神学の本質」、第二巻(2008年)は「啓示と聖書」でした。

第三巻(2009年)に収録されている論文名は、以下のとおりです。

1、神

我々の神認識の本質
神の存在証明
旧約聖書と新約聖書の神
神を語ること
三位一体の教理
三位一体
我々は神なしでありうるか
神の隠匿性

2、創造

天国の五つの定義
天使
創造と贖いの関係
存在の奇跡性
逆の意味での「実存」
我々は事物をいかに評価するか

3、神の摂理

神の摂理
我々はキリスト者として神の御手のうちなる世界に立っている
秩序と混沌
神は世界のために一つの計画を持っておられる
1953年の惨事
神と混沌
苦悩
教導

4、人間

今日の共同体問題
人間の責任と神の教導
良心について 成人の宗教教育との関連で
神と人間の出会い
権威
オランダの精神生活に映し出された人間
なぜ私は個人主義者でないか
プロテスタント的人間観
福音における非人間的要素
個人化の一形態としての成熟
心と事物
そのとき人間に何が起こるのか 教会の永続的要素
神と歴史
聖書とキリスト教の光のなかでの歴史における人間
変えられること
歴史の意味としての人間
わたしは元々何なのか
人間は創造者の王冠か

5、罪

新約聖書の身体論と精神論
聖定における罪
罪の陽気さ
罪人としての人間

6、地上の生

信仰と現実
我々の人生の意味
世界に対するキリスト教信仰の誠実さ
地上の生の評価
我々は何のために生きているのか
聖書の視点から見た喜び
キリスト教的生活感情としての喜び
意味を見出し意味を得る
存在の秘儀:無意味か罪か
人生の意味を問うことに意味があるか
垂直的なるものと水平的なるもの

7、時事問題

今日におけるキリスト教信仰の意味
王冠をかぶった馬鹿野郎
母性
豊かであることと増やすこと
結婚
家族
教会と動物愛護
『聖書と動物愛護』付録
プロテスタンティズムと動物愛護
心臓移植をめぐる道義的・宗教的問題
(新しきアダム)
(初めての月面着陸)

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強いて言えば「神学のトポスを探す旅」を続けてきた者として

以下の話題は繰り返し書いてきたことですが、10年越しの主要な関心事の一つですので、必要を感じたときには何度でも書き留めておくことにします。

SNS(ソーシャルネットワーキングサーヴィス)と総称されるPlaxo(アメリカ)、mixi(日本)、Facebook(アメリカ)、twitter(アメリカ)、Wassr(日本)などを「これが神学研究に活用できるものかどうか」、いえ、もっとはっきり言えば「これ(SNS)がファン・ルーラー研究会に活用できるものかどうか」を知りたいと思い、数年前から《試して》きました。

もう少し詳細に言います。ファン・ルーラー研究会は10年前から「メーリングリスト」という形態をもって活動を続けて来ましたが、「メール」独特の“刺激の強さ”が災いするケースも無かったとは言えません。実際、血圧が変動するくらいのショックを感じたこともあります。あの強烈な刺激こそが我々を勉学に向かわせる原動力にもなったと今も信じていますが、マイナス面があったことも否定しません。それで、もしあの刺激を少しくらい緩和することができたら、お互いを傷つけあうようなトラブルにまで発展せずに済み、より建設的な方向に向いていくのではないかと考えての「次善策」としてSNSを活用する可能性を探ってきた次第です。

しかし、はたしてSNSは「神学のトポス(場)」になりうるでしょうか。私自身は現時点ではどちらかといえば否定的な気持ちです。SNS自体に難癖をつけたいわけではなく、SNSを直接的な意味での「会場」にすることにはいろんな点で無理がありすぎるという意味です。SNSに対する使い方や関わり方が悪いだけかもしれませんが、まだかなり微妙な気持ちです。

何かトラブルが起こっている最中などには、そもそもインターネットを「神学研究」に活用することは無理なのだと言ってしまいたい衝動にさえ駆られることもないわけではありません。しかしそれは比較的「大都市部」にいる者たちの贅沢な意見というべきものであって、「情報格差」を痛烈に感じる地域で働いておられる牧師や教会の方々、あるいは海外に留学されている方々にとっては、インターネットを「命綱」のように思っている方もおられるはずです。

それは自分自身の体験でもありますので、「キリスト教専門書店」など望むべくもない過疎地等におられる方々の気持ちは、よく分かっているつもりです。私の気持ちは「これからの時代においてはインターネットを神学研究のために活用しなければならない(We have to use the Internet for doing Theology in the New century)」というものです。

私はメールであれ、ブログであれ、どこであれ、いつもジョークばかり書いています。しかしだからといってインターネットとのかかわりを悪い意味での「遊び」や「暇つぶし」という感覚だけで続けてきたわけではないつもりです。夜も昼もインターネットを主たる媒体として文字を書き続けていますのは、「情報が無い」ということが我々人間にとってどれくらい寂しくつらいことであるかを痛いほど体験してきた者としての「償い」のような気持ちを持っているからです。

しかし、他方で、インターネット上のトラブル、とくにメーリングリスト上の激突は、心理的に大きな負担になるということも我々が味わってきたとおりです。ファン・ルーラー研究会のメーリングリストを続ける責任を感じるけれども、続けにくい。それが正直な気持ちでした。

そもそもSNSを始めることになったきっかけは、我々にとってはお馴染のニューブランズウィック神学校のポール・フリーズ教授がPlaxoというSNSに誘ってくださったことです。

そのとき感じたことは、(やや侮蔑的なニュアンスで)「あらら、アメリカの神学者たちは、こんな怪しげものを神学研究に利用していらっしゃるのか」ということでした。しかし、尊敬するフリーズ先生から誘っていただいたことは光栄でしたし、SNSというツールに初めて興味がわいたことも事実です。

そして、このことが、日本で騒がれているmixiというSNSに入ってみようと思った直接の動機になりました。さらにその後、誘ってくださる方もあり、Facebook、Twitter、Wassrなどにも参加してみています。

しかし、残念ながらどれもイマイチです。SNSが悪いと言いたいのではないのですが、SNSが「神学研究のトポスになる」とはどうしても思えないのです。

これまで用いてきた中で最も「神学研究に役に立つ」と感じられたツールは、やはり「メーリングリスト」でした。あの独特の刺激感は神学研究に不可欠な要素です。大ゲンカさえしなければ、あるいは、激突するたびに「退会する、しない」という話になりさえしなければ、「メーリングリスト」という方法がベストであると、今でも信じています。

もう一つの場は「ブログ」であると言いたいところですが、ブログはひたすら、そこに文字を書いている人間の一方的な意見表明の場にしかなりえないと感じられます。私などは開き直っておりますので、ブログをもっぱらプロパガンダの場にさせていただいております。それ(プロパガンダの場)以上のものにはなりえないと信じていますので、せめてそれ以下のものに堕さないよう努力しているつもりです。

しかし、今週月曜日に恵比寿でお会いした友人からお茶を飲みながら聞いたことは「100人以上もの錚々たる方々が登録しておられるあのファン・ルーラー研究会のメーリングリストに何かを書いて送ることにはかなりの勇気が必要である」ということでした。「へえ、そんなもんですかね」としか答えられませんでしたが、敷居を高くしてしまった責任は私にあるかもしれません。

以前からお勧めをいただいているのは「ファン・ルーラー研究会のメールマガジンを始めるべきではないか」ということです。どんな小さなグループでも継続していくためには「定期刊行物」が必要であるというわけです。

タイトルは『月刊 ファン・ルーラー研究』とするか、もっと気のきいた名前のほうがいいかは公募してもいいです。私がそういうメールマガジンを勝手に始めてもよろしければ、そうさせていただきますが、よろしいでしょうか。ご意見をお伺いしたいです。「そういうのが送られてくるようなら退会する」と言われるようでしたら控えます。

モデルとして考えているのは、以前も紹介させていただいたことがある翻訳研究者の山岡洋一氏が続けておられる「翻訳通信」という月刊メールマガジン(登録無料)です。

山岡洋一氏の「翻訳通信」のホームページ
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/

このメールマガジンのほとんどの部分を山岡氏が書いておられますが、ときには別の方の文章も掲載されます。「翻訳とは何か」という一つのテーマをとことんまで突き詰めて教えてくれる、価値あるメールマガジンです。

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2009年9月10日 (木)

Google翻訳にビビる

パソコンソフトやインターネット上の自動翻訳というものを正直言って全く信用していなかったのですが、今回ばかりはかなり動揺させられました。「Google翻訳」はすごいと思いました。

いかなるサイトでも瞬時のうちに50以上の言語に「翻訳」して表示されます。「翻訳」とカギカッコをつけたのは、いまだにもちろん笑える翻訳が多いからですが、しかし、少し前と比べると状況は相当変わってきているように感じられました。

一例として、本ブログ「関口 康 日記」をGoogle翻訳で「翻訳」してみると、こんなふうになります。

ヘブライ語

ギリシア語

アラビア語

ドイツ語

オランダ語

フランス語

ロシア語

韓国語

でたらめばかり書きつけている拙ブログでも、他の国の言葉で表示されると、まるで自分のものではないかのように、なんとなく立派に見えてしまいました。ただ、この記事のタイトルはさすがのGoogleさんにとっても難解のようで、Google Translation Bibiruと訳してくれます。

しかし、特に驚いたのは、「関口康日記」よりも「今週の説教」や「改革派教義学」や「『キリスト教民主党』研究」などの各国版のカッコよさです。たとえば、ドイツ語版などは次のように表示されます。国際的に活躍している人の気分をちょっとだけ味わうことができます。説教に至っては、パッと見だけなら「カール・バルト説教集」さながらです。

今週の説教(ドイツ語版)

改革派教義学(ドイツ語版)

「キリスト教民主党」研究(ドイツ語版)

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2009年9月 8日 (火)

こういうのが我々にも欲しい

言うまでもないことですが、「私は知らないことだらけだ」と改めて思わされています。

「フォーラム神保町」というグループ、否、彼らの表現で言うところの“トポス”(場)があることを知り、羨望の思いでいっぱいです。

フォーラム神保町
http://www.forum-j.com/

ここに行けば、なんと、あの佐藤優氏の「神学講座(組織神学)」のゼミに参加することができます!

こういうトポスがファン・ルーラー研究会にも欲しいと、私は個人的に以前から強く願ってきました。ただし、開催場所は、教会ではなく、大学や神学校でもなく、できたら都内有名某所のビルで。

「フォーラム神保町」の向こうを張って、「神学フォーラムお台場」とかがいいです。

以上、「キリスト教民主党」研究といい、私のブログはすっかり妄想地帯と化しております。ああ恥ずかしい。

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母校愛、目覚める(2)

ところで、「母校愛、目覚める」と書いてしまいましたが、実を言えば、岡山時代に良い思い出がほとんど無いのです。

イジメとかは受けたことがありませんでした。小学校時代は「神童」と呼ばれていました(これはちょっとウソ)。しかし、その後の中学校と高校の学業成績が、とにかく悪くて悪くて。

私の経験から言わせていただけば、ハッピーな学生生活を送りたい人は偏差値低めの学校に行って、その中の上位にとどまり続けることをお勧めいたします。

いわゆる上位校(伝統校、有名進学校など)を狙いたい人でも、自分のプライドを守れる範囲内にとどめたほうがいいです。

プライドずたずたで、「母校愛」もへったくれもありません。

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母校愛、目覚める(1)

25年前に卒業した岡山朝日高校の『京浜同窓会報』が、本日わが家にも届きました。目を通しておりましたところ、いかにも岡山県人らしい威張りくさった調子で、現在のわが国の「三権の長」(衆参議長、最高裁長官、首相)のうちの二つの重責をいずれもわが校の卒業生が担っていると紹介していました。

それは、現在の参議院議長が江田五月氏であり、最高裁判所長官が竹崎博充氏であることを指して言っているわけです。江田氏の存在はずいぶん前から存じていましたが、竹崎氏が高校の先輩であったということを今日まで知りませんでした。

『京浜同窓会報』には江田氏と竹崎氏自身の文章が掲載されています。江田氏によると、在学していた1950年代後半(昭和30年代前半)は、「前身の旧制中学時代を合わせると、三権の長をすべてわれらが先輩で占めており、まことに鼻息の荒い時代だった」とのこと。首相の岸信介氏、衆議院議長の星島二郎氏、最高裁長官の田中耕太郎氏が本校の出身者であるということを当時の校長が誇りにし、岸首相を学校に呼んで、生徒向けの講演会を行ったりしたそうです(ただし、岸氏と田中氏は本校中退者のようです)。

こういうことを知ると、急に母校愛が目覚める、あざとい岡山県人の関口でした。

ちなみに、竹崎氏は「裁判員制度」導入の立役者だったという点で、ある人々からはかなり酷評されてきた人でもあるようです。かの8月30日に「×」を付けた方もおられるかもしれません。私は「裁判員制度」には賛成ですので、母校の先輩・竹崎氏を応援したいと思います。

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太宰治「一歩前進 二歩退却」(1938年)に共感して(2)

太宰治の「一歩前進 二歩退却」(1938年)を読みながら考えさせられたのはやはり説教の問題です。「三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑つているチエホフの顔を意識している」読者たちに苛立ちを隠せない太宰の様子が他人事とは思えません。

もちろん「説教は精神修養の教科書ではないのか」と問い詰められるならば「まさにそのようなものである」と答えねばならないとは思いますが、かたや、説教がイエス・キリストについて語る、あるいはパウロについて語るとき、そのイエス・キリストやパウロの陰に説教者自身の顔をあまりにも意識されすぎると困ってしまうのも説教者ではないかと考えざるをえないのです。

「可哀さうなのは、説教者である。うつかり高笑ひもできなくなった。」

松戸小金原教会では、主の日の礼拝の中で(カルヴァンと改革派教会の伝統に基づいて)「罪の告白と赦しの宣言」を行っています。「赦しの宣言」を朗読するのは牧師です。しかし牧師は、「赦しの宣言」を朗読する前に、教会員と共に自分自身の「罪の告白」をしなければなりません。私はたぶん教会員の誰よりも大きな声で「罪の告白」を読み上げ、その後、いくぶん小さな声で講壇の上で「赦しの宣言」を朗読しています。

この「赦しの宣言」の意義や本質を考えていくと、説教とは何かが分かるような気がしています。説教とは、かなり乱暴に言えば「自分のことを棚に上げて」語ることです。あるいは、「自分に罪がないと思う者がこの女に石を投げよ」とだけおっしゃって、御自身はしゃがみこんで地面に何かをお書きになっていた(ヨハネ8章)あのイエス・キリストの御姿に倣うことです。そうでなければ、どうして我々人間が「神の言葉」を語ることができるでしょうか。

日曜日の礼拝説教の善し悪しの問題が、教会にとっては最も深刻な事柄であるということは間違いありません。しかし、「説教者の言行不一致」(説教で言っていることと普段の行状が違いすぎる)という点が告発される場合には、ほとんどのケースは告発者の言うとおりなのだろうとは思っていますが、稀に(としておきます)、太宰がいら立ちを覚えた「三人の若い女の陰に、ほろ苦く笑つているチエホフの顔を意識している」というような本の読み方をするのと同じような仕方で、説教というものを把え、聴いているゆえに出てくる告発も含まれているように感じるのです。

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太宰治「一歩前進 二歩退却」(1938年)に共感して(1)

このところ、「聖書よりも」とは申しませんが、カルヴァンよりも、ファン・ルーラーよりも、太宰治が面白くて困っています。

お恥ずかしながら、これまで太宰「など」真面目に読んだことがなかったのです。そもそも小説というものをほとんど読むことができませんでした。小説家の妄想に付き合えるほど暇じゃないと、思いこんでいたところがありました。他人の心の中に入り込んでいく想像力が根本的に欠如していたのです。

しかし、どうしたことでしょう、年齢のせいでしょうか、ここに至って、太宰の文章が私の胃袋に流れ込んでくるものがあります。

ただし、まだ小説ではありません。彼の手記のたぐいにハマっています。近日感銘を受けたのは、「一歩前進 二歩退却」(初出1938年8月、太宰28歳)という短文です(『太宰治全集』第10巻、筑摩類聚版、117~118ページ)。

「日本だけではないやうである。また、文学だけではないやうである。作品の面白さよりも、その作家の態度が、まづ気になる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては呉れない。三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑っているチエホフの顔を意識している。
(中略)
可哀さうなのは、作家である。うつかり高笑ひもできなくなった。作品を、精神修養の教科書として取り扱はれたのでは、たまつたものぢやない。
(中略)
作家は、いよいよ窮屈である。何せ、眼光紙背に徹する読者ばかりを相手にしてゐるのだから、うつかりできない。あんまり緊張して、つひには机のまへに端座したまま、そのまま、沈黙は金、といふ格言を底知れず肯定してゐる。そんなあはれな作家さへ出て来ぬともかぎらない。

謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだつて、さうして読者は旦那である。作家の私生活、底の底まで剥がうとする。失敬である。安売りしてゐるのは作品である。作家の人間までを売ってはゐない。謙譲は、読者にこそ之を要求したい。

作家と読者は、もういちど全然あたらしく地割りの協定をやり直す必要がある。(後略)」

この文章のどこに感銘を受けたかをきちんと説明できるまで太宰の意図を斟酌できてはいませんが、とにかく「そうそう」と、膝を打って喜びながら読みました。

ブログとかメールなどを書いておりますと、私の文章を読んでくださる方々の中に、記述内容についての賛否や感想を知らせてくださる方がおられることには、励まされます。

しかし、「なんでこんな時刻にメールを書いているのだろう」とか「どうしてこんなことをブログなどに書いているのだろう」というような、その文章を書いている私の「態度」ばかりが気になるらしい方に接することがありまして、そういうことと太宰への「共感」とがどうやら関係しているらしいことに気づかされます。

まさに、「一歩前進 二歩退却」です。

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2009年9月 5日 (土)

はじめのことば

「『キリスト教民主党』研究」「はじめのことば」を書きました。

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はじめのことば

関口 康

日本国内で「キリスト教民主党」(Christian Democratic Party)を云々することがどれほど困難で危険を伴うことであり、また、どれほど虚しさや惨めさが漂う取り組みであるかは、よく分かっているつもりです。

そして、そのようなものがわが国に生まれる可能性というような次元に至っては、どれほど早くても半世紀ないし一世紀以上先のことであるという点も明言しておかねばならないほどです。

しかし、国際社会に目を転じてみますと、「キリスト教民主党」を名乗る政党が世界80数か国に存在し、力強い活動を続けていることが分かります(「世界のキリスト教民主党一覧」参照)。なかでもオランダとドイツの「キリスト教民主党」は、現在の政権与党を担当していることで特に有名です。

これで分かることは、「キリスト教民主党」という具体的な形式をもってのキリスト者の政治参加(Christian Political Engagement)は、理論上の空想にすぎないものではなく、世界史の過去と現在において多くの実践事例があるということ、平たく言えば、成功と失敗の歴史があるということです。

そして私がしきりに考えさせられていることは、日本におけるキリスト者の社会的発言と実践の目標は何なのかということです。どうしたらこの国の政治の場に、わたしたちキリスト者の声が、歪められることなく正しく届くのでしょうか。

「教会は政治問題を扱う場ではない」と語られることが多くなった昨今、それではキリスト者は、いつ、どこで、どのようにして政治に参加すべきでしょうか。

それとも、そもそも「キリスト者としての政治参加」(Political Engaging as a Christian)ということ自体がもはや無理なことであり、今日においては時代遅れであると言われなければならないのでしょうか。我々が「キリスト者として」立ちうるのはもっぱら教会の内部だけであり、せいぜい日曜日の朝の一時間だけである。社会と政治の場においては、中立者のふりでもして、自分の信仰を押し隠して立つというような、世事に長けた使い分けをするほうがよいでしょうか。あるいは、「素人どもは黙って手をこまねいていなさい。どうせ歯が立ちっこないのだから」というご丁寧なアドバイスに聞き従うべきでしょうか。

あなたに謹んでお尋ねしたいのは、このあたりのことです。

「キリスト教民主党」について誰かが、ただ《研究》するだけで、わが国にもそのような政党が即座に誕生するというようなことがたとえ奇跡としてでも起こりうるのであれば、誰も苦労しません。私自身はそのようなことは夢想だにしておりませんので、どうかご安心ください。

しかし、《研究》そのものは、誰にでも、そして今すぐにでも始めることができます。とにかく誰かが研究し続けているということが重要です。同じテーマについての先行の研究者たちを批判する意図などは皆無です。どのような協力でもさせていただきますので、お気軽にご連絡いただけますとうれしいです。

なお、このサイトはこのたび全く新規に開設したものというわけではなく、「ファン・ルーラー研究会」や「信仰と実践」(廃止)という名前のサイトで公開してきた政治ジャンルの情報提供サイトを引き継ぐものです。また、「キリスト教民主党」「改革派教義学」は姉妹関係にあります。両者の歴史的かつ思想的な相互関係はそのうち明らかにしていきます。古くからお付き合いいただいている方々には、これからもお世話になりたく願っております。

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「キリスト教民主党」研究(4)

たった今、私のブログにコメントが付きました。いわく、「キリスト教を使った侵略者は国外退去」だそうです。そのコメントは、即刻削除しました。

この種の誤解や馬鹿らしい中傷誹謗に、いちいち答えていくことはできません。それをやりはじめると、この国のほとんど1億人ほどの人々を相手にしなくてはならなくなり、その状態が少なくともあと百年は続くでしょう。その苦痛たるやローマのコロシアムでライオンの前に立たされた初代のキリスト者たちと同じか、それ以上でしょう。それに耐えられる人間は、たぶんいません。

インターネット上の中傷誹謗には、人をとことん追いつめるものがあります。日本ではキリスト者として社会的発言をするだけで、なんと「キリスト教を使った侵略者」扱いですから。やれやれです。

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2009年9月 4日 (金)

「キリスト教民主党」研究(3)

政治の話題をもう一つ。

ちょうどぴったり一年前の今日のことだったと今気づいたのですが、2008年9月4日(木)に「『46週間内閣』の謎」という一文を、このブログに書きました。「安倍内閣メールマガジン」と「福田内閣メールマガジン」がいずれもキッカリ「第46号」をもって終了したことに奇妙な一致を感じ、思わず書いてしまったものです。

もっとも、一年前に私が書いた内容は、半分以上ジョークでしたが、カルト団体がしばしば用いる「謀略説」の一種でしたので(「UFOはナチスの残党が作ったものである」とか「世界のすべてはユダヤ金脈によって牛耳られている」といったたぐいの言説)、「実に恥ずかしいことを書いたものだ」と苦にしながら、「ま、いいか」と放置したままでした。

ところが、です。昨日届いた「麻生内閣メールマガジン」の最終号がなんと「第44号」でした。きっかり46週間というわけではありませんでしたが、わずか二週間違い。ここまで来ると、謀略説、俄然有利です。「フィクサーは誰か。出てこい悪党!」と言いたくなります。

しかし、しかし。謀略説はお詫びして取り下げたいと思います。一年前に「フィクサー」(って・・・)を疑った人物は、違っていたようですから。

今回の選挙に大きな意味を感じた一つは、「公明党」の大敗ならびに与党からの転落、そして「幸福なんとか党」に一議席も与えなかったことです。

私自身は「宗教多元主義」という呼び名で知られる有名な立場、すなわち「あの富士山も、静岡県側から登ろうと、山梨県側から登ろうと、頂上では皆同じである。宗教も、どれを選択しようと、何も信じなかろうと、結果は同じである」とする立場に賛成することができません。正しい宗教的理念に立って政治的に行動する人々がいることを応援する気持ちさえあります。そのため、宗教政党ないし“教会政党”としての「キリスト教政党」の存在を否定することができません。もし日本に「キリスト教政党」が誕生した日には心から喜んで支持したいと思っています。

しかし、そのことと「政治のカルト化」は全く別のことです。わが国の多くの人々に願うことは、「カルト」と「宗教」をどうかきちんと区別していただきたいということです。この区別をなかなかしていただけないことが「キリスト教政党」について真面目に議論することを困難にしている大きな理由にもなっています。

最近は、中学生くらいになっても「神社」と「寺」の違いも知らないという子どもたちが増えているようです。「牧師」と「神父」の違いなど知る由もないといった具合です。だからこそカルトの出る幕があると言えるのか(我々としてはますます警戒心を強めなければならないのか)、それともカルト自身も行き悩んでいるのか(少しは安心してよいのか)は、まだよく分かりません。

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「キリスト教民主党」研究(2)

一昨日の「『キリスト教民主党』研究」という文章に、もう少しだけ付言しておきます。

たった今知ったことなのですが、今月18日にバルト神学受容史研究会というグループの編集による『日本におけるカール・バルト 敗戦までの受容史の諸断面』(新教出版社、2009年)という本が発売されるようです。素晴らしいことだと、感動しました。これはぜひ買われ、読まれるべき書物です。まだ手に取って見たわけではありませんが、今からお勧めしたいと思います。

バルト神学受容史研究会編
『日本におけるカール・バルト 敗戦までの受容史の諸断面』(新教出版社、2009年)
http://www.shinkyo-pb.com/post-1031.php

一昨日書いたことも、まさにこの「日本におけるバルト神学受容の歴史」という問題にストレートにかかわることなのです。これは逆説であり皮肉でもあるのですが、「20世紀最大の神学者」にして「反ナチ教会闘争の理論的指導者」とまで言われた「社会派キリスト者のスター」であるカール・バルトがその神学思想によって現代のキリスト教会に残した結果は、「教会の政治的無効化ないし無能化」でした。今や「教会の預言者的な叫び声」など誰の耳にも届かないし、関心ももたれません。

もちろん「キリスト教だの教会だの牧師だのというようなものには、どうか引っこんでいてもらいたい。あのような連中は放っておくと面倒なことになるので、何とかして政治的・社会的に無効化ないし無能化しておかなければならない」とでも願っている方々はバルト神学をどうぞいつまでも信奉し続けてください。あるいは「現時点でそういう結果になっていることの責任はバルト自身には無く、もろもろのバルト主義者たちが悪かったのだ」とでも言って、どうぞあなたの尊敬する教父をかばい続けてください。しかし、私はそういうあなたに全くついて行くことができません。

この問題の重要性の大きさたるや、もしこれを無視するならば、すなわち、この問題が含む重大な問いかけに我々自身が真剣に取り組むことなく、未来を切り開くべく努力することも怠るならば、日本の神学の寿命はあと二十年ももたないのではないかと思うほどです。

そして「神学の死」は「教会の霊的生命の死」を意味します。教会の立派な建物は残るでしょうし、何らかの集会も残るでしょう。「いっそ神学(シンガク)などという質草にならないものには死んでもらったほうが、集会の人数が増えてくれてよいのだが」という正直で真っ当な意見があることも知っています。しかしだからといって譲るつもりはありません。「神学の死」は「教会の死」です。「神学を殺すこと」は「教会を殺すこと」です。神学なき説教、あるいは「神学が杜撰(ずさん)な教会」に苦しめられた過去の日々には、もう戻りたくありません。

しかし、同時に言わなければならないことは、現在の我々がまさに真剣に取り組むべき課題は、疑いなく日本のキリスト教界に最も大きな影響を与えてきたカール・バルトの神学の問題点を鋭く見抜いた上で、「バルト神学」そのものと「日本におけるバルト受容史」とを徹底的かつ全面的に「歴史化」すること、すなわち「過去のものとすること」です。

それはちょうど、前世紀の初頭のバルトが19世紀の神学的巨頭シュライアマッハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher [1768-1834])を「過去のものとした」のと同じことです。今度はバルト自身が、そして彼の神学そのものが「過去のものとされる」番です。

「バルトなどとっくの昔に『過去のもの』になっているではないか。何を今さら」と言われるかもしれませんが本当にそうでしょうか。「カール・バルトという妖怪」が、いつまでも日本の教会に徘徊し続けているのではないでしょうか。あの「神学者」が、あの牧師が、あの教会が、大きな力を持ち続けているかぎり、そう判断せざるをえません。

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2009年9月 3日 (木)

信仰の道を共に歩もう

ブログを使い始めた頃はこれを「伝道」のために用いるつもりなどは全く無かったのですが、結局私の関心は「伝道」へと向かっていくようだということを改めて自覚させられます。

信仰の人生とはどうしてこれほどまでに楽しく愉快なものなのかと日々感嘆している人間(私)が、この楽しさを何とかして多くの人々に伝えたいと願っているこの気持ちには偽りも揺らぎもありません。

そんな私ですので、どこに何を書いても、結局「伝道」になっていくようです。

ブログのトップページに長らく「リフォームド / プロテスタント ウェブライブラリー」といういかにも適当に(いいかげんに)考えた大仰な名前をつけてきましたが、このたび大きく路線を変更し、「信仰の道を共に歩もう」という名前にしました。

信仰の道を共に歩もう
http://www.reformed.jp/

くどいようですが、私のブログがこんなふうなものになっていくことを当初は全く予想も期待もしていませんでした。自分でも何がしたいのか、どういうことを目指しているのかが分かっていませんでした。

しかし私は今や、おそらく頭の天辺からつま先まで「牧師」なのです。これ以外の何も私にはできそうもありません。どんなに辛い日々が待ち受けていようとも、なんとか耐えていきます。

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2009年9月 2日 (水)

「キリスト教民主党」研究(1)

わが国に「民主党政権」が誕生したことに触発されて何か新しいことを始めたくなりました。手始めに「『キリスト教民主党』研究」というサイトを新設しました。そして、そのトップページに「世界のキリスト教民主党一覧」をアップしました。日本国内にこの種の情報はほとんど皆無ですので、「こんなにたくさんあったのか」と驚かれる方が多いのではないでしょうか。

「キリスト教民主党」研究(新設)
http://cdp.reformed.jp/

キリスト者がきわめて少数であるわが国に、公党としての「キリスト教民主党」が誕生するのは、たとえどれほど強く願ったとしても、半世紀か一世紀以上先のことでしょう。しかし、ただ手をこまねいているというのでは、無策のそしりを免れないでしょう。誰かが何かを始めなければ、どんなに小さくても何らかのアクションを起こさなければ、永久に何も生まれないでしょう。

日本の特にプロテスタント教会が「キリスト教政党」を求めてこなかった(あるいは意図的に拒否してきた)理由は必ずしも明らかにされてきませんでした。もちろん単純に「キリスト者の数が少なすぎて為すすべがなかった」と言えばそれまでであり、説得力もあります。実際、日本のキリスト者の多くは「キリスト教政党」という言葉を聞くとジョークだと思って腹を抱えてゲラゲラ笑いだすのです。そのような現実があることを私は知っています。

しかし、数の問題以上に思想的ないし「神学的な」理由もあったと思われます。少なくともその一つにバルト神学の圧倒的な影響を数えなければならないと私は考えています。

「キリスト教政党」の成立の要件は、「神学」(theologia)以上に「キリスト教哲学」(philosophia christiana)です。換言すれば、「キリスト教」(christiana)と「哲学」(philosophia)との《順接的》関係性の確保です。そのとき我々に問われることは、教会の外(extra ecclesiae)なる「世界」(mundum)における政治、経済、文化、教育、芸術といった一般的・普遍的な事柄を「キリスト教へと改宗した人間であるならば」どのように見、どのように態度決定するのかです。

ところがバルトは「キリスト教哲学」を全面的に退けました。次のように述べています。「キリスト教哲学(philosophia christiana)は事実上、いまだかつて決して現実のことであったためしはなかった。それが哲学(philosophia)であったなら、それはキリスト教的(christiana)ではなかった。それがキリスト教的(christiana)であったら、それは哲学(philosophia)ではなかった。」
(Karl Barth, Kirchliche Dogmatik, I/1, S. 5 カール・バルト著『教会教義学』第一巻第一分冊、原著5ページ)

今はこれ以上詳述できませんが、書きとめておきたいことは、このバルトの神学的思惟の呪縛から解放されないかぎり、日本に(公党としての)「キリスト教政党」が誕生する日が訪れることは永久にありえないだろうということです。

バルトにおいて「キリスト教」と「哲学」との関係性は《逆接的》ないし対立的なものとしてしか描かれません。彼にとって「キリスト教」とは(『ローマ書講解』から『教会教義学』に至るまで一貫して)永久に「数学的点」であるところの「イエス・キリストにおける神の自己啓示」のみにとどまり続けるのであって、決して「線」にも「面」にもなっていきません。したがって、それが「世界」において形態(ゲシュタルト)を獲得することもありえないのです。

日本で「キリスト教政党」の問題に取り組むためには、このバルトの問いかけを回避できません。「キリスト教」と「哲学」との関係は、バルトが示唆したように、ただ逆接的・対立的なものでしかありえないのでしょうか。キリスト者である人間は「世界」に対して批判的・攻撃的なスタンスしか採りえないのでしょうか。この難問が我々の喉元に突き付けられています。

なお、新サイト開設に伴い、従来サイトの一つのURLを変更しました。

関口 康 小説(URL変更)
http://ysekiguchi.reformed.jp/novel.html

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2009年9月 1日 (火)

『改革派教義学教本』改訂委員会(仮称)設置の提案

「『改革派教義学教本』改訂委員会(仮称)の設置」を提案いたします。ただしこの「提案」を持ち込む先がまだ見つかりません。しかし、日本の教会の「神学的再生」を求めていくならば結局こういうことに至らざるをえないと信じています。私自身はこの仕事のためならこの命をささげてもよいと思っています。この一事のために涙をこらえて苦心してきました。この件に限ってはある程度ファナティックであることを認めます。しかし「あなたにこの仕事はふさわしくない」と言われるならば、引き下がります。私などよりもっとふさわしい人にお委ねいたします。その方々の仕事を遠くから静かに見守らせていただきます。

改革派教義学の「改訂」の流れ(要旨)
http://dogmatics.reformed.jp/prologue.html

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