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2009年3月

2009年3月30日 (月)

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(3)

「神学」の学位(学士、修士、博士)が何らかの意味や価値を持つ社会はある意味でウラヤマシイですが、教会サボってガリベンして取得された「神学博士」なんてアホらしくてクダラナイものです。 教会サボる理由が本当に勉強なのかどうかもアヤシイものです。

昨日は、松戸小金原教会の日曜学校の進級式でした。子どもたちが受け取った「精勤賞」の賞状のほうがはるかに素晴らしい。大真面目にそう思います。

ちなみに、ある国の「神学博士さま」の中に、今でも腹にすえかねているほど傲慢な人がいました。 2年前のある国際学会の「日本大会」で研究発表した人です。

自分の発表のわずか2時間前にUSBメモリをすっと差し出し、「この中に入っている原稿をプリントして全員に配布しろ」と日本人スタッフに“命令”。

見れば15ページほどもあり、それを100部印刷するということは、単純に15×100=1500枚です。これだけをたった2時間で印刷し、ホチキス止めして配れ、と。

ま、やり遂げましたけどね。「アンタの国ならそれで通用するのか知んないけど、ここは日本だよ。人をバカにするのも程度問題だよ」と、ブツブツつぶやきながらでしたけど。

しかし、事はそれで終わりませんでした。

日本人スタッフが総がかりでホチキス止めしている最中に、その御仁がイライラした顔で「まだか。もうすぐ自分の発表の時間だ」と来る。

「テメエが持ってくるのが遅かったせいだろー!」という言葉を飲み込みつつ「もうちょっと待ってください」と言うと、うらみがましい目で睨みつけられる。

やっと出来上がって手渡したら、日本人スタッフに「ありがとう」の一言もなく、フンとか鼻を鳴らし(ホントに)、かっさらって行く。

大して内容もない研究発表なんですよ、それがまた!

かの国では上流階級な「神学博士さま」なのかどうか知りませんが、「人間としてどうよ?」な人でした。もう二度と会いたくないですね。

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「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(2)

バルトが大学教授になる前にはザーフェンヴィルで牧師をやっていたことは私も知っています。大学教授になってからもいわゆるバルメン宣言の起草などを通して教会に大きな影響を与えましたし、晩年のバルトは刑務所で説教したりしていました。

私がバルトを「教会に通わない神学者」であると呼ぶのは、これらの事実を全く知らないで言っていることではないつもりです。

私が問うていることは、神学者、とくにわざわざ『教会的な教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)というタイトルの本を書いた「自称『教会的な』教義学者」が、それを書いている最中に教会に通っていなかったというのは、どういうことを意味するのだろうかということです。

ご承知のとおり(伝統的な)神学、とりわけ教義学には「教会論」(Ecclesiologie)という項目が不可避的に置かれることになっており、バルトの『教会的な教義学』にも「教会論」に該当する部分はありますし、非常に詳細な議論がなされてもいます。

しかしそれらの議論も「教会に通わないで」書かれていたというわけです。日曜日の礼拝には行かない。また、日本語で言えば教団や教区、大会や中会における「教会行政」などにも関与しない。 教会との関係という観点からいえばバルトは「フリーランスの神学者」であったと言えるでしょう。

したがって、バルトの語る「教会」は、深井さんの言葉を借りれば、本質的教会論であるということになるわけです。聖書と諸信条あたりを持ち出して「教会はこうあるべきだ」と本質論的に語る。そんな話は、やはり「絵に描いた餅」です。

そのようなバルトの議論を「無責任である」というような言葉で断罪するつもりはありませんが、あまりにも抽象的すぎるため、まともに傾聴するに値しないとは思います。

『教会的な教義学』というタイトルからして、これが「教会に通わない神学者」が自分の主力商品に付けた名前であるということになりますと、ギャグやジョークだったのか、あるいは皮肉たっぷりの当てこすりだったのかと勘繰りたくなります。

私は、仮にそれがギャグやジョークや当てこすりであったとしても、そのこと自体を悪いと言いたいのではありません。そうである可能性を知らない読者があまりにも多すぎるのではないかと言いたいのです。

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2009年3月29日 (日)

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(1)

カール・バルトの書物は、やはり、とにかく一度はじっくり読まれるべきです。バルトは「今年150歳」と祝われている日本のプロテスタント教会の神学思想に、あまりにも大きな影響を及ぼしすぎました。つまり、現在の日本の教会の「病因」を探るためにバルトを読む必要があるのです。

ヨーロッパやアメリカの教会には「バルト以前の神学的伝統」があり、その中にあった様々な悪い面を徹底的に批判するアンチテーゼ提出者としてバルトが登場したわけです。その登場には歓迎されるべき面もあったことを私も認めます。

ところが、日本の教会には「バルト以前の神学的伝統」どころか、「キリスト教の伝統」そのものがほとんどなかったわけです。神学体系などというものが存在していなかった日本。そこに「体系的なもの」としてまとまったバルトが、まるでこれこそ「ザ・プロテスタント」、いや「ザ・キリスト教」でございます的な装いをもって、どどーんと輸入された。

おいおい、ちょっと待て、バルトが書いていることはあくまでも「アンチテーゼ」なのであり、要するにほとんどいつも「けんか腰」で書いていることなんだっつーことを知らないで、あるいは正体を見抜くことができず、彼が書いていることをほとんど無批判に鵜呑みにして、そのギラギラとした光を放つ鋭利な刃先を素人相手に向けては、迫力満点に「教会なるもの」の現状を批判し、ほとんど破壊していくほどにそれを罵倒する。

「教会なるもの」に対する批判や不満を持っている人にとってはバルトの言葉は救いだったと思います。私もかつてはそうでしたから。こんなクダラネエもん壊れちまえと、青春時代の破壊衝動みたいなものと共に教会を睨みつけていたい頃に接するバルトの言葉には、新鮮かつ衝撃的な感動がある。

しかし、いつまでもそれだけでは困るでしょう。我々は、こんなクダラネエもんと自分でもどこかで思いながら、また他の人々からそう思われていることを熟知しながらも、そんなもん(教会なるもの)でも、「これは我々の人生にとって水や空気、毎日の食事のように必要不可欠なものだ」と確信をもつことができたから、そんなもんを実に二千年も担い続けてきたのです。

「バルト自身は教会に通っていなかった」ことを、先週金曜日に行われた日本基督教学会関東支部会(会場:聖学院大学)での深井智朗先生の講演を通して確認しました。たぶんそうだろうなあと予想していたことが当たってしまった格好です。

「教会に通わない神学者」が『教会教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)を書く!そのバルトが描き出す「教会」とは何ぞやが問われて然るべきなのです。はっきり言えば、それは「絵に描いた餅」にすぎません。深井先生の言葉を借りれば、「バルトは本質主義者であった」ということです。教会の本質はこうだと主張はするが、現実の教会にはコミットしようとしなかったのです。

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2009年3月27日 (金)

「○○最大の」:人を幻惑するトリッキーな言葉

「無礼者め。この方は『20世紀最大の神学者』であらせられるぞ。控えおろう!」

水戸黄門かっつーの。アホクサ。

実際問題、これまでカール・バルトが紹介されてきた際に「20世紀最大の神学者」という(これ自体は意味不明な)マクラコトバがつけられたこと、何回くらいあったかを数えてみたらよいのです。

あるいは、今なら「20世紀最大の神学者」という検索語でネット上を調べてみれば、すぐに結果が出てくるんじゃないかと思うほど。直視するのが恐ろしいので私は検索したくないので、ぜひどなたかに試してみていただきたいところです。

「○○最大の」とかいう(どうとでも取れる)トリッキーな宣伝文句に頼るようになったら、神学も教会も終わりです。

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2009年3月26日 (木)

「20世紀最大の神学者カール・バルト」という非学問的な宣伝文句

幸か不幸かこのところ仕事が立て込んでいて禁欲的な生活を強いられてきましたので、たまには発散することをお許しいただいてもよいでしょう。とても辛らつな皮肉を書きたくなりました。といっても、大したことではありません。前世紀以来、教会と神学の文献の中に繰り返し書き込まれてきた一つのクダラナイ決まり文句を笑い飛ばしたくなっただけです。

「20世紀最大の神学者カール・バルト」。

この非学問的な宣伝文句に多くの人々が踊らされてきました。出版関係の方々からすればただの販促のつもりで書いていることでしょうから、この方々を責めるのは酷です。しかし、これと同じ言葉を(なるべく客観性を求められる)学者や教師たちが反復するのはいただけません。事の真相をよく分かっていながら善良な市民をだましているなら、ペテン師であるとの誹りを免れません。あるいは、もし学者や教師たちまでも「だまされている」なら、ちゃんと勉強してくださいねと言わなくてはならなくなります。

とにかく意味不明なのは「20世紀最大の」です。何をもって「最大」と呼ぶのでしょうか。

例の『教会教義学』のページ数の多さでしょうか。「九千頁もある!」と驚かれてみたり、百科辞典サイズの白いクロス張りの本が教師たちの本棚の相当大きなスペースを分捕るので「白鯨」と呼ばれてみたり。

あれのページ数が多いことには以下のような理由があります。あれを実際に読んだことがある人なら誰でも知っていることです。

(1)とにかく繰り返しが多い。あれは一冊の本として書きおろされたものというよりも、大学での講義のレジュメ(というか完全原稿、というかセリフ)を集めて作ったもの。しかも、文書化(タイプ打ち)に際しては秘書のシャルロッテ・フォン・キルシュバウムの手がかなり加えられていることは確実で、バルトが書いたのかキルシュバウムが書いたのか分からないところも多々ある。つまり、漫画などでよく見る「原作 ○○ 作画 △△」がなされていたと言ってよい。「原作 バルト 作文 キルシュバウム」である。私はそうであることが悪いと思っているわけではない。しかし、九千頁の作文をバルトひとりでなしえたかのように宣伝する人々がいることは悪いと思っている。

(2)古代・中世・近代の神学者たちの文献からの引用(コピー&ペースト)がやたら長い。つまり、他人の書いた文章でページ数をかなり稼いでいる。翻訳されるわけでもなくラテン語ならラテン語のままで書き抜かれているだけである。このバルトのようなやり方は、他の人々がしてきたように、脚注で引用個所を指示するだけで文章そのものは引用しないやり方よりは「便利」で「ありがたい」かもしれない。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(3)バルトは『教会教義学』の中に教理解説と聖書釈義を区別しないで並べているので、両者を分けて出版してきた従来の神学者たちの教義学よりもページ数が多いのは当たり前。ついでに、あの本には時事評論やら政局分析やら書評のようなもの、さらにジョークとそのオチまで加わっている。私はそれが悪いと思っているわけではなく、好ましいことであるとさえ思っている。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(4)あとは余計なことですが、日本の中でカール・バルトを「20世紀最大の神学者」と呼びたがる人々の中に、自分の所属教団を「日本最大のキリスト教団」とも呼びたがる人が多かったりする(全員がそうだと言っているわけではありません)。そして、その教団の中の「最大規模」の教会に属していたりすると「おれは日本最大だ!」とさぞかしご満悦なのでしょうね(大爆笑)。

(5)かつて出会った一人の中学生から聞いた言葉。「おれたちの県の中学生の学力は、全国レベル最下位と言われている。そして、おれの通っている学校は県内最下位と言われている。そして、おれはその学校の最下位である。つまり、おれは全国最下位だということだ。鬱だ。」この中学生の用いた三段論法と、(4)の人々が用いる三段論法は、よく似ているものです。

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2009年3月24日 (火)

カルヴァン写真コンクール!

以下、謹んでお知らせいたします。三件あります。

(1)カルヴァン写真コンクール!

オランダの新聞Trouw(トラウ=「真実」)のメールニュースは毎日私のパソコンにも届いているのですが、このところ忙しくて読む時間がありませんでした。しかし今朝、先週あたりの記事を読んでいて、驚くやら喜ぶやら。Trouw誌が現在、「カルヴァン生誕500年」を記念して「カルヴァン写真コンクール」(?!)を実施していることを知りました。

その記事はTrouw誌のホームページ(以下URL)にも掲載されています。興味深いものばかりです!
http://www.trouwcommunities.nl/trouw/ontspanning/interactief/calvijn-fotowedstrijd/

このページ中のStuur een foto op(写真を送信する)というリンクをクリックすると、自分の写真を送信できるページが開きます。

写真は誰でも送ることができます。テーマは「カルヴァンと私」(Calvijn en Ik)。カルヴァンとカルヴィニズムに関するものであれば、受け付けてくれるようです。締切は4月9日(木)です。作品は5月8日(金)からドルトレヒトに展示され、また最優秀作品はTrouw誌に掲載されるとのことです。写真が得意な方はぜひチャレンジしてみてください。

ちなみに、上記URLに公開されている写真の中で私が最も興味をひかれたのは、Kerkgang(教会に通う)というタイトルがついているものです。

黒っぽくて平べったい手さげカバンの横に、聖書と賛美歌、数枚のコイン(たぶん献金用)、そしてKINGという名前のドロップ飴か何か(よく分かりません)が並べてあるのを写しているものです。我々キリスト者にとっては当たり前の中身かもしれませんが、一枚の写真として見せられるといろんなことを考えさせられるものがあります。そして、何よりこれが「カルヴァンと私」というテーマのもとに置かれていることが興味深い。

日本でも「カルヴァン写真コンクール」、やりたいですね!

(2)カルヴァン生誕500年記念集会

さて、前にもお知らせしましたとおり、今年7月6日(月)以下の要領で「カルヴァン生誕500年記念集会」を行うことになりました。

日 時  2009年7月6日(月) 受付13:00 開会13:30 閉会19:55
会 場  東京神学大学  東京都三鷹市大沢3-10-30
会 費  2,000円 (軽食有 学生500円)

* プログラム
第一部 講演(13:45~)
「讃美と応答―この世を神の栄光の舞台とするために―」 芳賀 力氏(東京神学大学教授)
「ジュネーヴ礼拝式について」 秋山 徹 氏(日本基督教団上尾合同教会牧師)

第二部 講演と演奏(16:45~)
「ジュネーヴ詩編歌について」 菊地純子 氏(日本キリスト教会神学校講師)
ジュネーヴ詩編歌オルガンコンサート 今井奈緒子 氏(東北学院大学教授、オルガニスト)

第三部 ジュネーヴ礼拝式・聖餐式再現(18:25~)
礼拝司式         石田 学 氏(日本ナザレン神学校教授)
カルヴァン説教朗読  高砂民宣 氏(青山学院大学准教授)
聖餐式司式       関川泰寛 氏(東京神学大学教授)

その他詳細は以下URLをクリックしてください。

カルヴァン生誕500年記念集会
http://calvin09.protestant.jp/

主催は「カルヴァン生誕500年記念集会実行委員会」(久米あつみ委員長)。これは「アジア・カルヴァン学会日本支部」と「日本カルヴァン研究会」が協力してできた委員会です。私は委員会書記です(本日夕方、実行委員会のミーティングを青山学院大学で行います)。

また協賛者として、会場を快く提供してくださった「東京神学大学」(4月から近藤勝彦学長)を筆頭に、「一麦出版社」、「いのちのことば社」、「教文館」、「キリスト新聞社」、「クリスチャン新聞」、「新教出版社」、「日本基督教団出版局」(五十音順)と、最強のキリスト教出版各社が勢揃いでサポートしてくださることになりました。本当に感謝しております。

さらに、7月6日(月)当日、東京神学大学は夏休みに入っていますので、神学生たちがいろんな奉仕をしてくださることになっています。このことも感謝です。

とにかくこれが「五百年に一度の(!)ビッグイベント」であることは間違いありません。このところ連絡窓口である私のところに、問い合わせの電話が相次いでいます(しかし、なるべくなら、電話よりメールのほうが助かります)。

・「ファン・ルーラー」だけではなく、「カルヴァン」、「カルヴァン主義」、「改革派・長老派の教会と神学」、「詩編歌」、「ジュネーヴ礼拝式」等にも関心がある方、

・日本屈指のオルガニスト今井奈緒子先生のパイプオルガンの美しい音色をお聴きになりたい方、

・「東京神学大学の建物をまだ見たことがないし、入ったこともない」という方、

・「久米あつみ先生を一目見たい」という方(?)、

・その他、動機・理由は何であれ、

この機会にぜひお集まりくださいますよう、主催者の一人として心からお願いいたします。

(3)アジア・カルヴァン学会第7回講演会

また、再度お知らせしますが、4月25日(土)立教大学を会場に行う「アジア・カルヴァン学会第7回講演会」(主題「ヨハネス・アルトジウスの政治思想とその現代的意義~カルヴィニズムと政治をめぐる一側面~」講師 関谷 昇氏、コメンテーター 小川有美氏、司会 田上雅徳氏)にも、ぜひご出席くださいますよう重ねてお願いいたします。

詳細は以下URLをクリックしてください。

アジア・カルヴァン学会
http://society.protestant.jp/

寒い寒い(ホントに寒い)冬を乗り越えて、やっと春らしくなってきましたね(でも今日の松戸は、まだちと寒い)。皆さん、これから元気を出していきましょうね。花粉症の方はどうかお大事に。

このところ主日礼拝の出席者数が少し持ち直し、受洗志願者も複数与えられて、励まされています。厳しい戦いの中にある日本の教会のみんなが元気になるようなメッセージを発信していきたいです。これからもどうかよろしくお願いいたします。

ブログ「今週の説教」も毎週更新中です(「今週の説教メールマガジン」も続けています)。
http://sermon.reformed.jp/

ちなみに、検索サイトで「今週の説教」という語で検索すると、GoogleYahooGooではいまだに第一位で拾ってくれますが、MSNではなぜか百位以内にも入らなくなってしまいました。

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2009年3月20日 (金)

W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(2)

ご参考までに、ファン・アッセルト教授の講演の中で語られているいくつかの単語の発音を私の耳で聴くと、以下のようなカタカタ表記になります。「関口くん、あなたと私は違った聞こえ方がするんだが」とおっしゃる方の耳は、最大限に尊重します。しかし、とりあえずは私の聞き取り内容をご紹介してご批判を乞うことにします。( )内は辞書的意味であり、赤い字はアクセントの位置です。

van Ruler(人物名)
「ファン・ルーラー」
※「ルー」は舌がぶるると震えていますが、「リューラー」には全く聞こえません!

gereformeerde theologie(改革派神学)
「ヘリフォルミールテ・テオロヒー

scholastiek(スコラ神学)
「スコラスティーク」

protestantse orthodoxie(プロテスタント正統主義)
「プロテスタントセ・オルトドキシー

Nadere Reformatie(第二次宗教改革)
ナーデレ・レフォルマーチー」
※「チー」(tie)は「シー」ではないし、scholastiekの「ティー」(tie)でもありません。

traditie(伝統)
「トラディチー」

Calvijn(人物名)
「カルフェイン」
(カフェインではありません。カルヴァンのことです)

Calvinisme(カルヴァン主義)
ルフィニスメ」

onderzoek(研究)
オンデルジューク」

Abraham Kuyper(人物名)
ブラハム・イパー」
(「コイペル」には聞こえません。口を大きく開けた「カ」です!)

Bavinck(人物名)
バーフィンク」
(日本のキリスト教書店に流通している「バビンク」では絶対にありません)

loci(場所、転じて教説の意。いわゆるロキ)
チ」

menselijke vrijheid(人間の自由)
メンセラック・フイヘイト」

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W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(1)

以前も「国際ファン・ルーラー学会」(2008年12月10日、アムステルダム自由大学)の「講義音声」をネット上で聴くことができるサイトをご紹介しました。それを再び聴いています。不思議なもので、何度も聴いているうちに、だんだん意味が分かってくるものがあります(というか、何度も聴かないと私にオランダ語は分かりません!)。

なかでも特に面白くて何度も聴いているのは、W. J. ファン・アッセルト先生の「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(Van Ruler en de gereformeerde scholastiek)です。

ファン・アッセルト教授は、プロテスタントスコラ神学に関する研究の世界的権威者の一人であり、とくに17世紀のオランダで活躍した改革派神学者ヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)の研究者です。ユトレヒト大学神学部でファン・ルーラーから直接教わった学生であり、御自身もユトレヒト大学神学部で教えておられる人です。現在は「オランダプロテスタント神学大学」で教えておられます。

ファン・アッセルト教授の神学的立場はファン・ルーラーと同じ「改革派神学」です。プロテスタントスコラ神学に対する評価は非常に高いものです。20世紀の弁証法神学者やそれ以降のエキュメニズム神学者が好んで持ち出してきた「16世紀宗教改革からの逸脱ないし退落としての17世紀の(死せる)正統主義」という説明図式に立たず、16世紀宗教改革からのラディカルな継続性(radicale continuiteit)が17世紀正統主義にあることを主張するものです。

この講演の中でファン・アッセルト教授は、radicale continuiteit theorie(根本的継続理論)という表現を用いておられます。この理論と同じ基本線に立つ人々として、元ハーバード大学教授ハイコ・A. オーバーマン教授(故人)や米国カルヴァン神学校のリチャード・ムラー教授といった方々を挙げておられます。

そのファン・アッセルト講義の音声はこれ(↓)です。
http://cgi.omroep.nl/cgi-bin/streams?/eo/radio/kerkinbeweging/2008-2009/vanasselt.wma

これは分科会における短い講義だったのですが、私は別の分科会に参加しましたので直接聴くことはできませんでした。しかし、帰国後ネットに講義音声が公開されて以来何度も聴いていてやっと分かってきたことが、いくつかあります。今日特にピンと来た部分は、この講義の真ん中あたりですが、次のようなことを言っておられるところです。

「ファン・ルーラーはカルヴァンをラディカルに相対化した。彼は自分の神学を『カルヴィニズム神学』(Calvinistische theologie)として把えることは決して無く、常に『改革派神学』(gereformeerde theologie)として把えていた。しかし、それはまた、一教団としてのオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands、GKN)の神学であるという意味でもないことは言うまでもない〔なぜならファン・ルーラーはGKNではなくNHKの神学者であるゆえに〕」。

この発言の直後、会場から爆笑が起こります。この講演会場が元GNK教団の教職者養成機関(神学校)であった「アムステルダム自由大学」であったゆえの笑いであると思われます。つまり、出席者たちは、ファン・アッセルト教授がアブラハム・カイパーの「カルヴィニズム」とカイパーが創設した「アムステルダム自由大学」とに対する軽い当てこすりを述べたことに大いに反応したわけです。他にもご紹介したい点がたくさんありますが、今は我慢します。

この国際ファン・ルーラー学会の講演音声は、多くの方々にお聴きいただくことをお勧めいたします。何度も聴いているうちにだんだん分かってくるはずです(一度も聴かなければ決して聴き取れるようにはなりません)。

以下URLに講演音声のリストがあります。http://cgi.omroep.nl...から始まるリンクをクリックすると、音声がスタートします(メディアプレーヤ等の音声再生ソフトが必要です)。レッツ・トライです!

国際ファン・ルーラー学会の講演音声リスト
http://www.aavanruler.nl/index.php?alias=Impressie

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2009年3月19日 (木)

質疑応答(7)罪との格闘

(7)義認後の罪の問題といつまでも格闘し続けるのが、福音派の一つの特徴なのかもしれません。

ファン・ルーラーもウェスレー的な「完全聖化主義者」ではありませんので、聖化のプロセスにおける「罪との格闘」の問題は軽視していません。しかし、そのことをファン・ルーラーは徹底的に「三位一体論的・聖霊論的に」考え抜くのであり、つまり、それを「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)の事態として捉えるのであって、わたしたち人間(イエス・キリストにあって選ばれ、信仰を与えられた人間)のうちに「聖霊」(プニューマ)が働いてくださっていることを前提としながら、聖霊(なる神)と人間精神との(ティリッヒ的に言えば大文字のSpiritと小文字のspiritとの)内的葛藤として「罪との格闘」を描き出すのです。

そして、人間存在のうちに聖霊が(そして同時に「三位一体の神」が)内住してくださっていることそのものが、すでに「救われた状態」です。わたしたちは「神無しで」罪と闘うのではなく、「神と共に」闘うのです。その勝敗はいずこにありやは、すでに決していると信じるべきです。

そしてファン・ルーラーの場合には、すでに書きましたとおり、「地上の存在を喜び楽しまないこと」や「このわたしを全面的に受け容れないこと」こそが「創造者なる神への冒涜」なのであり、それこそが端的に「罪」なのです。「人生を嘆き悲しむこと」や「憂鬱にとらわれたままでいること」でさえ、彼に言わせれば「罪」なのです。

ですから、事は単純です!神の力を信頼して、大胆にこの世を喜び楽しめばよいのです。わたしたちにできることは、それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。(終わり)

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

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質疑応答(6)改悛的霊性

(6)これらの問題を掘り下げていくと、そもそも「世」をどう見ているかという点に帰着するように思います。私は、元々神に造られた良いものとしての「世」が堕落の影響によってその善性を見失ったため、現在我々の目に広がる「世」は無批判に享受できないものと見ている面があると思います。それに対してファン・ルーラーは、神に造られた良いものとしての「世」を強調しているのだと思います。もしこの分析が正しいとすれば、焦点は「ファン・ルーラーにおける被造世界の堕落の影響」にあると思うのですが、いかがでしょうか。

わたしたちが受け継いできたらしき「一切の(神学的)議論を堕落と罪の問題から始める伝統」は、改革派神学の場合は、その根元にドルト教理基準のTULIP(カルヴァン主義の五特質!)があると思われます。

しかし、ドルト教理基準は本質的に「コントラ・レモンストランティア」であり、アルミニウス主義者からの批判に対するレスポンスにすぎません。すなわち、あれは「コントラ」ないしアンチテーゼとしてのモチーフを初めから持っているものであり、ドルト教理基準自体は何らカルヴァン主義の本来的なテーゼではありません。それゆえ、ドルト教理基準から全改革派神学を出発させることは根本的かつ方法論的に間違っています。「全面的堕落」(Total Depravity)は改革派神学における第一のテーゼではありえないのです。

しかし、改革派教会も含む日本のプロテスタント教会が色濃く受け継いでいるのは、そのような歴史的・伝統的・信条的な神学思想というよりももう少し根の浅いものであると、私には感じられます。私が考えるのは、むしろビリー・グラハム的な大衆伝道のやり方の中にある「まず最初に罪意識を徹底的に叩き込むことによって人を回心へと導く」というあれです。典型的な心理的誘導方法(Psychological Inductive Method)です。

しかし、私はこのことをビリー・グラハムひとりの責任にするつもりはありません。パネンベルクが指摘した、プロテスタンティズム特有の「改悛的霊性」そのものを問題にしなければならないと考えています。

16世紀の宗教改革者たちが強調したことは、罪責意識そのものではなく、罪の自覚によって怯える魂がイエス・キリストによって自由にされるという点にありました。ところが、彼ら以降のプロテスタンティズムは、あまりにも過度の罪責意識を強調しすぎるあまり、洗礼を受けてイエス・キリストと共によみがえった後も(この意味での「よみがえり」は単なるメタファーではありません!)、いつまでも堂々巡りを繰り返す不健康なメンタリティに留まり続ける人間性を涵養してしまいました。パネンベルクの議論は正鵠を得ています。

「創造→堕落→贖い」と来た後に、またしても「堕落」が息を吹き返しているような議論をしてしまうのは、おそらく福音派だけではないと私は理解しています。改革派も同じです、というか改革派のほうがひどいかもしれません。(さらに続く)

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

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質疑応答(5)罪の二次性

(5)私も、被造世界を喜び楽しむことが神の意志であると思っております。しかし、それを具体的な生活の中で実践しようとする時、被造世界全体が堕落の影響によって「喪に服している」という面も忘れてはならないと思わずにはいられないのです。そうなると、被造世界を「喜び楽しむ」という時、そこには何らかの形で神を「喜び楽しむ」こととは、区別をつけなければいけないのではないでしょうか。

「喪に服している」というご見解には、正直ちょっとした驚きを禁じえませんでした。「堕落」(corruptio)の影響があるのは当然のことですが、イエス・キリストにおける「贖い」(redemptio)の影響のほうはいかがでしょうか。「贖い」とは、改革派神学の伝統においては「再創造」(recreatio)です。その意味は、創造の原初性の再獲得です。堕落した全被造物に「はなはだ善きもの」(erant valde bona! 創世記1・31)としての原初性が回復されるのです。

この「再創造」は終末だけに起こる出来事ではありません。それはイエス・キリストの十字架と復活による「贖い」によってすでに始まったことであり、今なお進展し続けており、終末における完成の日まで継続されます。花婿としてのイエス・キリストは、すでに来られています。祝宴はすでに始まっています。それにもかかわらず、どうしてわたしたちがいつまでも喪に服し続けなければならないのでしょうか。

「堕落」ないし「罪」についてファン・ルーラーが主張していることは、彼の言葉を借りれば、「罪は二次的なものないし二番目のものである」(De zonde is iets secundairs, een tweede)ということです。第一番目はもちろん「創造」(schepping)です。創造こそが「神の善きみわざ」です。天地を無から有へと呼び起こしてくださった神の力、そしてまたイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださった神の力と比較するならば、人間の犯す罪の力や影響などどれほどのものでもありません。もし人間の犯す罪の力が神の救いの力に勝利するというなら、人間は「神以上の存在」であると認めることを意味してしまいます。(さらに続く)

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

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質疑応答(4)神を喜ぶ自由

(4)創造者を「享受」することと被造物を「享受」することとの間にもし些かの区別もないとなるなら、逆に我々が「神を喜び楽しむ」ということもまた「贅沢」「遊び」ということになり、そこにある種の「不必要なもの」という概念、つまり「人間の主な目的」ではなく、オプショナルなものに成り下がるという思想が入り込むことにはならないのでしょうか。

(4)の質問はとくに重要なものだと思いました。「神を喜び楽しむこと」も、もちろん「贅沢」であり「遊び」です。ファン・ルーラーの線を伸ばしていけば当然そうなります。

私が「不必要」と書いたことは、なるほどたしかに「オプショナルなものへと価値を低めている」という反応ないし反発を招きかねません。

しかし、これはオランダ語のnoodzakelijkheid、ないし英語のnecessityをどう訳すかにも依ります。「必要性」と訳すと反発されるようなら、「必然性」と訳すと少しは理解されるものが出てくるかもしれません。しかし、問題は論理的(ロジカル)なことにとどまりません。「必然性」と訳しますと、論理的なことだけに限定されてしまう危険性があります。

この「必然性」を説明するために持ち出すことができそうな例は、(あまり良い例ではありませんが)「わたしたちがもうける子どもの数」などです。

結婚して子どもを産む。一人にしようか、二人にしようか、三人以上にしようか。何人「でなければならない」理由は、どこにも無いはずです。お二人の自由です。「どうぞご勝手に!」です。誰からも強制されません。「何人産まなければならない義務」などは、誰にもありません。そもそも「子どもを産まなければならない責任」さえ、人間にはありません。

そのようなところで義務だ、責任だ、役割だ、使命だと言い出すところに「使用」(uti)の伝統が臭います。しかし、たとえば「女性は子を産むために使用される」だなんてことは、もはや絶対に言うべきではありません。

「神の創造のみわざ」も、だれから強制されたものでもありません。神に向かって「創造しなさい」と命令したり、「神よ、あなたには天地万物と人間を創造する義務と責任がある」と説教したりする存在とは何なのでしょう。そういうことができるのは、おそらく「神以上の存在」だけです。

わたしたちの「神を喜び楽しむこと」についても、義務だ、責任だ、役割だ、使命だとやりだすのが我々の伝統(アウグスティヌスの伝統!)なのかもしれません。しかし、義務だ責任だと言っては脅され、命令されて、強制されて、嫌々ながらさせられることが、どうして「神を喜び楽しむこと」(fruitio Dei)でしょうか。全く矛盾しているではありませんか。いかなる強制もなく、自由のうちに仕えることが「神を喜び楽しむこと」ではないでしょうか。(さらに続く)

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

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質疑応答(3)享受と使用

(3)アウグスティヌスが使用(uti)と享受(frui)という点に具体的に見出したのに対して、ファン・ルーラーがこの区別性を取り払ってしまうとすれば、彼はどこに両者の区別性を具体的に見出したのでしょうか。同じ「喜び楽しむ」あるいは「享受」(frui)と言う時、そこには「使用」(uti)と「享受」(frui)の差異ほどではないにしても、創造者を「享受」することと被造物を「享受」することには、何らかの区別性があるのでしょうか。

繰り返しになりますが、創造者と被造物の区別性を「享受」と「使用」の区別に求めること、すなわち、わたしたち人間の倫理的態度に求めることが、なぜ必要なのでしょうか。

創造者と被造物との区別を設けてくださったのは神御自身です。なぜ人間が、自らの態度をもって(一方に対しては崇敬ないし礼拝をもって、他方に対しては軽蔑と尊大さをもって)区別しなければならないのでしょうか。

わたしたち(その中には私自身も含まれています)が「被造世界を享受すること」に躊躇があるのは、それを軽んじるなり憎むなりするように教え込まれてきたからではないかと思うのですが、その教えないし命令は神から出たものではないでしょう。アウグスティヌスもカルヴァンも神ではないし、直接啓示の仲保者でもありません。

わたしたちにできることは、「創造者は被造物ではないし、被造物は創造者ではない」というこのきわめて単純な事実を確認することだけではないでしょうか。

ファン・ルーラーの場合、神の場合も、世界の場合も、「享受すること」(frui)においては区別も差もありません。それはちょうど、17世紀のフラネカーとライデンで活躍したヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)が、御父なる神と御子キリストの関係についても、神と人間との関係についても、同じ一つの「友情」(amicitia)という概念で説明したのと似ています。(さらに続く)

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

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質疑応答(2)世を軽んじる罪

(2)聖書以来、「この世と調子を合わせてはならない」ということ、「この世を軽んじる」ということは、多くの神学者たちが論じてきました。アウグスティヌス然り、Imitatio Christiの著者然り、カルヴァン然りです。「この地上を喜び楽しむこと」と「この世と調子を合わせてはならない」という教説とは、ファン・ルーラーの神学の中でどのように調和を保っているのでしょうか。

そもそも、「享受されるために」この世界とわたしたち人間は造られたのです。つまり、「享受されるべきこと」こそが事物の本質であり、創造者の意図なのです。

キリスト者に求められていることは、神の意図に従うこと(≠この世と調子を合わせること)です。神の意図に従わないこと、それに逆らうことを「罪」と呼ぶのです。

神の意図が「被造物(=世と人)は享受されるべきものである」ということであるならば、なぜわたしたちはそれを喜び楽しんではならないのでしょうか。世はむしろ、世自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。人間はむしろ、人間自身や自分自身を軽んじたり憎んだりするのではないでしょうか。

「この世は罪と悪に満ちている」と言って人生を嘆き悲しみ、絶望し、ため息と不平ばかりを口にし、他人と自分自身を傷つける。このような「世を軽んじる」態度はなんら神の意図に従っていません。ファン・ルーラーは、そのような(敬虔主義的・禁欲主義的な)態度を指して「創造者なる神への冒涜」と呼んでいます。

むしろわたしたちキリスト者は「世と人と自分自身に逆らって」世と人と自分自身を享受すべきではないでしょうか。これがファン・ルーラーの提起した問題であると言えるでしょう。

私自身を含む(改革派)正統主義者の落とし穴は、「これはアウグスティヌスとカルヴァンが主張したことだ」と言われたが最後、ほとんどそのままを無批判に受け入れてしまいそうになることです。しかしわたしたちは、彼らから悪いものまで受け継ぐ必要はありません。やはり彼らへのストア主義の影響は明白であると私は見ています。聖書的でないものを、知らず知らず持ち込んでしまっているのです。(さらに続く)

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

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質疑応答(1)汎神論の懸念

拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から以下のようなご丁寧な質問をいただきました。ご本人の許可を得ることができましたので、質問内容を公開用に編集させていただいたうえで、謹んで回答いたします。

(1)講演の引用文では「この世界こそが神の世界である。この世界こそが、まさに神の栄光の舞台(theatrum gloriae dei)なのである。この地上の生が、神の栄光の現実化である」と言われており、この辺りにファン・ルーラーの神学的根拠がありそうですが、地上において働かれる「神御自身」とその舞台である「地上そのもの(被造物)」を、同様に「喜び楽しむこと(享楽)」が許されているのは、なぜなのでしょうか。ともすると、両者を非常に近付けて「喜び楽しむこと(享楽)」を許すと、汎神論的(pantheistic)な思想に接近してしまいそうですが、ファン・ルーラーはこの辺りに警戒心を持っていたのでしょうか。もし持っていたとすれば、どのように汎神論的思想と自らの神学を区別されていたのでしょうか。

ご質問ありがとうございました。どれも当然起こりうる疑問ですので、次回の講演のための参考にさせていただき、そのとき論拠を挙げてきちんとお答えできるようにしたいと思います。

しかし、事はわりあい単純です。この件に関するファン・ルーラーの神学的根拠は、主に創造論です。(経綸的三位一体における)創造のみわざ(creatio)において起こることは創造者(Creator)と被造物(creature)の絶対的区別です。創造論がきちんと機能しているかぎり、そしてこの区別が維持されているかぎり、いかなる汎神論も起こりえません。何の心配もありません。

しかも、創造者と被造物の区別は人間自身が立てた区別ではなく、神御自身がお立てになった区別です。創造者(神)については享受してよいが、被造物(物と人)については使用にとどめるべきであるという見方は、なんといっても人間側からの視点です。神がそのようなことをおっしゃったでしょうか。

そしてファン・ルーラー自身が論じているのは、創造者にとっての被造物の存在とは(神の存在を成り立たしめる上でかならずしも「必然性」がないという意味で)「不必要なもの」であり、その意味での「贅沢」であり、「遊び」であり、「楽しみ」であるということです。つまり、創造者自身が被造物を「享受」しておられるのです!(続く)

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カール・バルトの影響(2)

ファン・ルーラーとバルトの関係については、多くの人から繰り返し問われてきたことです。

バルトの場合は「シュライエルマッハー斬り!」で神学の新しい時代を切り開いたのでしょうし、オランダのファン・ルーラーやドイツのモルトマンは「バルト斬り!」で新しい時代を切り開こうとしました。

「キレてねえよ」とバルトは言ったかもしれないし、少しは痛い思いをしたかもしれない。まあ、そんなところでしょう。

かなり有名な事実は、晩年のバルト(1960年代)が『教会教義学』を「第三項の神学」(聖霊論)の光のもとに全部書き直したいとか言いだしたことです。

バルトは、自分の著書の中ではファン・ルーラーにはついぞ一度も触れませんでした。少なくとも私の知る限りは。

しかし、1950年代後半にファン・ルーラーが声を大にしてバルトの「キリスト一元論」を批判し、「三位一体論的神学が必要だ」とか「聖霊論的視点が必要だ」と主張していたことと、バルト自身の「第三項の神学によるKD全編書き直し」発言とは全く無関係ではありえないだろうと、私は見ています。

バルトがファン・ルーラーの名前を知らなかったはずはありません。バルトのオランダにおける親友であり何度も名前が言及されるライデン大学のミスコッテ教授は、オランダ改革派教会におけるファン・ルーラーの「論敵」でした。

ファン・ルーラーに関する情報は、ミスコッテから常に詳細に聞いていたはずです。「バルトとミスコッテがタッグを組んでファン・ルーラーを神学的リングの外に押し出した」と評している人がいるほどです。

私もバルトの近代主義、自由主義批判は正しかったと思っています。しかし、あの批判そのものはアンチテーゼにすぎないものであり、いわゆるジュンテーゼとしての新しいものを生み出すまでに至っていません。

19世紀の文化的プロテスタンティズムを徹底的に批判し、事実上の破壊にまで導いて、その後バルトは何を生み出したのでしょうか。「キリスト教的なるもの」(Das Christliche)を各個教会だけ(しかも都会の大規模教会だけ)、礼拝だけ、説教だけ、牧師だけのモノローグへと狭隘化しなかったでしょうか。

バルトについては今こそ真剣にそのようなことを考える必要があるだろうと、私は考えています。

ファン・ルーラーにしろモルトマンにしろ、新しいものを生み出すに至ったとまでは言えません。新しいものを生み出すどころか、20世紀の急速な世俗化=脱教会化の中で神学者の存在意義が根本から否定されてきた中で、手も足も出ない状況に追い込まれていったというのが本当のところでしょう。

しかしまた、だからこそ彼らが「バルト後の尻拭い時代」の中で新しいキリスト教的文化の形成のために悪戦苦闘した形跡はありありと残っていますので、それらから私たちが学びうることは多いと思います。

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2009年3月17日 (火)

カール・バルトの影響(1)

拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」をお読みくださった方から早速「ファン・ルーラーとカール・バルトは影響を受け合っているのか」という貴重なご質問をいただきましたので、謹んでお答えいたします。

ファン・ルーラーへのバルトの影響は決定的なものです。ポジティヴにも、しかしネガティヴにも。

ファン・ルーラーの大学(神学部)時代の組織神学の教授がハイチェマと言い、オランダ初のバルト主義者と呼ばれた人でした。博士論文執筆の際の指導教授にもなってもらいました。そのハイチェマを介しての影響です。

ファン・ルーラー自身の言葉で言えば、学生時代の(たぶん途中までの)ファン・ルーラーは「純血のバルト主義者」であった(やや冗談めかした誇張も含まれますが)ほどです。

しかし、ファン・ルーラーは学生時代(1920年代!)からすでにバルトの「限界」に気づき、反発も感じていました。ひとことでいえば、バルトの神学は「氷のように冷たい」という感覚であり、歴史や文化などに正当な位置を与えないものだという点への不満でした。

そして、その最初の思いがふくらみ、バルトの神学全体へのトータルな批判へと発展していきました。たとえば、現在『季刊 教会』に連載されているファン・ルーラーの「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差違」(牧田吉和先生の訳)には、バルト神学(だけではありませんが)へのトータルな批判の意図が込められています。

もっとも、年齢的には22歳の差があり(バルトのほうが上)、また国際的知名度(というか国際的売り込み)の上でもバルトのほうがはるかに優っていましたので、バルトはファン・ルーラーをほとんど全く相手にしませんでした。

また、誤解がありませぬように一応申し上げておきますと、拙論「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)」の主旨は、まさか「日本キリスト改革派教会批判」ではないし、「日本のカルヴィニスト批判」でもないということです。もっと広い話です。ここを読み間違えられて、「ああやっぱりな」とか思われてしまいますと、非常に困るところです。

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2009年3月16日 (月)

講演「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)」

先週金曜日に「五つのお知らせ」をしたばかりですが、一昨日と昨日で、二つ終わりました。どちらも楽しかったです。出席してくださった方々にも喜んでいただけたと思います。肩の荷物を少しおろすことができて、ほっとしました。残りはあと三つ。まだまだがんばるぞ。

「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」

(改革派神学研修所 東関東教室「信徒講座 生き生きクリスチャンライフ(1)」、日本キリスト改革派勝田台教会、2009年3月14日)

「聖書をどう語るか―牧師は説教をどのように準備しているか―」

(松戸小金原教会2009年度第1回教会勉強会、2009年3月15日)

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2009年3月13日 (金)

五つのお知らせ

以下、近況報告を兼ねて、五つのお知らせがあります。順序は、時間的に遠い順です。すべてに私も関わらせていただいています。なんだかとても忙しいです。

(1)カルヴァン生誕500年記念集会

2009年7月6日(月)、アジア・カルヴァン学会と日本カルヴァン研究会の共催による「カルヴァン生誕500年記念集会」を東京神学大学(東京都三鷹市)で行うことになりました。主題は「礼拝者カルヴァン」です。神学講演、ジュネーヴ詩編歌についての講演とパイプオルガン演奏、そして「ジュネーヴ礼拝式・聖餐式再現」など盛りだくさんの企画です。

詳しくは、「カルヴァン生誕500年記念集会ホームページ」をご覧ください。ポスターもダウンロードしていただけます。

カルヴァン生誕500年記念集会ホームページ
http://calvin09.protestant.jp/

また、このホームページで「カルヴァン生誕500年記念行事カレンダー」を近日公開予定です。このカレンダーには、日本全国ならびに海外で予定されているカルヴァン生誕500年祭の行事日程をまとめています。お楽しみに。

(2)アジア・カルヴァン学会 第7回講演会

2009年4月25日(土)、アジア・カルヴァン学会の第7回講演会を立教大学(池袋キャンパス)で行うことになりました。主題は「ヨハネス・アルトジウスの政治思想とその現代的意義~カルヴィニズムと政治をめぐる一側面~」です。第6回講演会が大いに盛り上がり、時間が足りなくなったので、攻守を交替して議論を続行することになり、今回の企画となりました。

詳しくは、「アジア・カルヴァン学会ホームページ」をご覧ください。有意義で白熱した議論を期待できます。ぜひご参加ください。

アジア・カルヴァン学会ホームページ
http://society.protestant.jp/

また、このホームページで近日中に「アジア・カルヴァン学会ニュースレター第5号」を発刊いたします。主な内容は、第6回講演会の報告(田上雅徳氏の講演要旨を中心に)です。お楽しみに。

(3)日本プロテスタント宣教150周年記念講演会

2009年4月21日(火)、日本キリスト教会と日本キリスト改革派教会の共催による「日本プロテスタント宣教150周年記念講演会」を、日本キリスト教会横浜海岸教会(神奈川県横浜市)で行うことになりました。両教会を代表する教師の講演を通して、日本宣教の幻を力強く受け継ぐ機会にしたいと願っています。

詳しくは、「日本プロテスタント宣教150周年記念講演会ポスター」をご覧ください。

日本プロテスタント宣教150周年記念講演会ポスター
http://www.rcj-net.org/images/150th_protestant_japan_poster.pdf

(4)牧師は説教をどのように準備しているか

2009年3月15日(日)、つまり明後日のことですが、松戸小金原教会の2009年度第一回教会勉強会を行う予定です。発題者は私・関口です。主題は「聖書をどう語るか」、副題は「牧師は説教をどのように準備しているか」です。教会のみんなに「伝道しましょう。伝道は牧師だけがするものではなく教会全体でするものです」と励ます立場にある者として、まずは自分の説教をどのように準備しているかを「公開」する機会をもちます。

詳しくは、「松戸小金原教会ホームページ」をご覧いただけますとうれしいです。このホームページは、現在80歳の引退長老が作成・管理してくださっています。

日本キリスト改革派松戸小金原教会ホームページ
http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo/

(5)改革派神学研修所 東関東教室

2009年3月14日(土)、つまり明日のことですが、改革派神学研修所東関東教室主催「信徒講座 生き生きクリスチャンライフ」で、私・関口が「ファン・ルーラーの喜びの神学」というお話をします。会場は日本キリスト改革派勝田台教会(千葉県八千代市)です。

詳しくは、「改革派神学研修所 東関東教室ホームページ」をご覧ください。

改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/

以上、宣伝ばかりとなりましたことをお詫びいたします。

私自身も過去にひどく痛感させられ続けたことですが、首都圏の教会と地方の教会の「情報格差」は、あまりにも歴然としています。ブログやメールのような(これ自体は安っぽい)ことが、ほんの少しでも何かのお役に立つのであれば(立つのであれば、です)、私の力の尽きるまで情報を発信させていただきます。

皆様、どうかお元気でお過ごしくださいませ。

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