自分の日記の過去の記事を読み返しているうちに、ほぼちょうど一年前に書いたことが目にとまりました。読みながら、「一年前からちっとも変わってないなあ」とがっかりする面と「一歩くらいは前進できたかな」と自負できる面の両方があると分かりました。昨年12月オランダにとにかく行くことができたのは、私にとっては(「私にとっては」です)一歩前進でした。しかし、後のほとんどの部分は、いまだに実現できていません。絶望などはしていませんが(私の辞書に「絶望」の二文字はありません)、果てしなく遠いものを今なお感じています。
「研究環境」の整備をめぐる主要課題(2008年2月28日)
私の少しばかりの経験から語りうることは、ファン・ルーラーの研究と翻訳を志す者たちの書斎(ないし研究室)に揃えておくべき必要最低限の文献は前記五名の著作(カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールドマンス(※註)、とくに彼らの『全集』や『著作集』や『教義学』の一式)であるということです。日本語版や他国語版があるものについては、それらを揃えることも「翻訳」のための有益な参考資料になります。そしてもちろん、彼らの著作を「揃えておく」というだけでは不十分であり、徹底的に読み込んでおく必要があります。しかし、上記五人の書物を読むためには、最低でもオランダ語とドイツ語の知識は不可欠です。また彼らの書物にはヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の三大古典語はもとより、英語やフランス語あたりは遠慮会釈なく出てきますので、これらの外国語についての手ほどきをどこかで少しだけでも受けていないかぎり、全く手に負えません。以上のことが、言うならば「日本におけるファン・ルーラー研究」を可能にする大前提です(「ファン・ルーラー自身の著作を収集する」という点はあまりにも自明すぎる前提ですので、ここでは省略いたします)。しかしまた、これだけの前提がある程度までクリアされていれば、翻訳はかなりスムーズに進んでいくでしょう。ただし、これだけの「研究環境」を《整備する》ということのためだけに、軽く10年や20年くらいはかかるはずです。加えて、「語学留学」ができればベストでしょうけれど、そこまで行くとよほどの大富豪の家庭か、そうでなければ強大な組織(大学や教団や財団など)の後ろ盾があるような人にしか実現しえないでしょうし、一般家庭ならば文字通り「家屋敷を売り払うこと」でもしないかぎり無理でしょう。それに、飛ぶように売れる書物の翻訳でもあるならともかく、販売益を全く期待できない教義学の翻訳の前提を得るための出費なのですから、ある見方をすれば、ただの「道楽」か「趣味」、あるいは「放蕩」にさえ見えるかもしれません。この偏見や嘲笑との戦いにも相当の年月がかかることを、覚悟しなくてはならないでしょう。
(※註) 私は長らくdr. Oepke Noordmansを「エプケ・ノールドマンス」と表記してきました。しかし、この神学者の人名表記は「ウプケ・ノールトマンス」とすべきであるとオランダから帰国された慶應義塾大学の田上雅徳先生から御指摘いただきました。旧稿をいじくることはなるべくやめておきますが、今後は「ウプケ・ノールトマンス」と表記いたします。
ファン・ルーラーを読むために揃えておくべき文献は、カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールトマンスだけで尽きるものではありません。まだまだたくさんあります。ごく最近のことですが、フローニンゲン大学神学部でのファン・ルーラーの指導教授であったTh. L. ハイチェマの教義学教本(タイトルは『弁証学としての教義学』Dogmatiek als apologetiek)と、19世紀のユトレヒト大学で教えたJ. J. ファン・オーステルゼー(J. J. van Oosterzee)の『キリスト教教義学』(三巻本)を入手できました。
前者ハイチェマの教義学教本には、その前半部分で、バルトとブルンナーのいわゆる「自然神学論争」についての評価が徹底的に論じられています。そして、ハイチェマとしては、バルトの立場により近く立ちながら、ブルンナーが主張した「争論学」(Eristik)としての弁証学の意義を見出すとしています。
私自身は、キリスト教信仰の「弁証」、ないしあからさまに言うところの「護教」が行われないような「伝道」はありえないと考えてきました。とくに現代社会の中で「弁証学」を全く持たずに教会が立つことは、生身の体に砲弾を受けるに等しいものがあります。周りのどこを見回しても、我々を守ってくれるものは何もありません。守ってくれるものがあると思っている人は、勘違いしているのです。
我々は、自己弁護する必要があります。恥も外聞もなく。ただし、その場合の「弁証学」は、教会の外側から持ち込まれたようなヘンチクリンな理屈であってはなりません。比較宗教学のようなものを持ってきて、「キリスト教は他の宗教よりも相対的に上位にあることが論証されうる」だなんてことを言い張ったところで、何の意味もありません。笑止の沙汰です。
我々に必要なことは「教義学」そのものによるキリスト教弁証です。我々はまさに「弁証学」としての「教義学」の言葉を語ることによって、自分自身と教会員の生命と信仰を守らなければならないのです。それがどのように実現するかはともかくとして。
我々が考えるべき筋道は、「教義学」の座を「宗教哲学」や「宗教社会学」や「人間学」へと譲り渡すことではありません。おそらくは正反対です。求められることは、教義学そのものの固有の論理のうちに弁証学的機能を探ることです。あるいは、「宗教哲学」や「宗教社会学」や「人間学」の教義学的コアを探り当てて暴露すること、「あなたがたが取り組んでおられることも言葉の正しい意味での『教義学』(ドグマティーク)である」ということを自覚していただき、同じ土俵に立っていただく(または「知識の高みから引きずりおろす」)ことです。
ハイチェマの本は(買ったばかりですので)まだきちんと読んではいませんが、基本的スタンスとしては良いものであると感じています。そして、ハイチェマの基本スタンスが教え子ファン・ルーラーの「宣教(アポストラート)の神学」においてどのように受け継がれているかを見ていくことが重要であると思わされています。