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2009年2月

2009年2月24日 (火)

「改革派神学研修所 東関東教室メールマガジン」創刊

このたび「改革派神学研修所 東関東教室メールマガジン」を創刊させていただきました。

皆様にもメールマガジンの購読者になっていただきたく願っております。以下URLのページからご登録いただけますとうれしいです(登録の方法はとても簡単です)。

メールマガジン登録ページ
http://groups.yahoo.co.jp/group/rti-higashikanto/

改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/

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2009年2月21日 (土)

ファン・ルーラー研究会結成10周年記念メッセージにかえて

20081209_11昨日(2月20日)はファン・ルーラー研究会の「結成10周年記念日」でした。そのようなおめでたい日にもかかわらず、夜遅くまで外出しておりましたので(青山学院大学で「カルヴァン生誕500年記念集会実行委員会」を行っておりました)、毎年恒例の「記念メッセージ」を日付が変わるまでの間に書くことができませんでした。どうかお許しください。

さて、このたび結成10周年の記念として、ファン・ルーラーの文章をひとつ翻訳しましたので、謹んでご紹介いたします。予定論の講義です。おそらく本邦初訳です。訳文を石原知弘先生(アペルドールン神学大学修士課程)にチェックしていただきました。石原先生に心より感謝いたします。

※以下の訳文のPDF版はここをクリックしてください。

ファン・ルーラー研究会、これからも続けていきます。皆さま、どうかよろしくお願いいたします!

(画像はユトレヒト大学本部棟です)

2009年2月21日

関口 康

(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師、ファン・ルーラー研究会代表)

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A. A. ファン・ルーラー神学講義 「神の選びについて」 (1958年)

訳/関口 康

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2009年2月19日 (木)

「国際ファン・ルーラー学会」のフォトアルバムが公開されました

Ocunywhej47scnbm3603ks3kskxl01このたびオランダの新しい『ファン・ルーラー著作集』の出版社の特設サイトに、昨年12月10日(水)アムステルダム自由大学で行われた「国際ファン・ルーラー学会」(Internationaal Van Ruler-congres 2008)の様子を知らせるフォトアルバムが公開されました。私のスピーチしている写真も紹介されています。たいへん光栄に思いました。正直言って嬉しいです。

特設サイト
フォトアルバム
スピーチ冒頭の動画(You Tube)
スピーチ全体の音声
スピーチ全文
オランダ日報Nederlands Dagbladの記事

○ フォトアルバムの見方
「Album bekijken」(アルバムを見る)をクリックすると開くページに縮小サイズの各写真があります。各写真をクリックすると拡大します。

最もエキサイティングな思いをもって拝見したのは、最後のモルトマン先生(独)とファン・アッセルト先生(蘭)とロムバルト先生(南ア)とファン・ケーレン先生(蘭)が楽しそうに映っておられる写真です。まさに「国際会議」です。私の名前は紹介されていませんが(ここだけちょっと残念)、「groet uit Japan」(日本からの挨拶)と書いていただいています。もちろん十分満足しています。たった5分くらいのスピーチだったのですから。

明日は「ファン・ルーラー研究会結成10周年記念日」です。ほんのささやかなサプライズを計画しています。お楽しみに。

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2009年2月18日 (水)

説教訓練におけるブログ活用の可能性

最近気になっていることは、私の説教のブログ「今週の説教」の「人気記事ランキング」です(同ブログの画面右の真ん中あたりにあります)。残念ながらこのランキング表示の仕組みがよく分かっていないのですが、表示されているのは当然、アクセス数のランキングでしょう。たとえば、本日時点の順位は、以下のようなものです(このランキングは常に変動しています)。

1位:「世の罪を取り除く神の小羊」
2位:「初めに神は天地を創造された」
3位:「わたしはどうしたら救われるのか」
4位:「人生は礼拝のために、礼拝は人生のために」
5位:「苦しみを乗り越える力、それがキリスト」
6位:「あなたの涙がぬぐわれる日」
7位:「死と葬儀―あなたを独りで死なせない―」
8位:「来なさい、そうすれば分かる」
9位:「あなたの人生の目標は何ですか」
10位:「親身になってあなたを思ってくれる人は誰ですか」

「こういうことが分かって、だから何なのですか」と問われると言葉につまってしまう私がいます。しかし、いろいろ考えさせられることはあります。学校や事業の成績はもちろん、テレビ番組の視聴率、映画の入場者数、音楽のCD売り上げやダウンロード数。まさにありとあらゆるものが「順位」で計られ、競争している時代です。あるいは、大学の教師たちの講義やゼミの内容、さらに宿題やテストの出し方に至るまでを学生たちから厳しく評価され、その克明な評価結果がインターネット上に公開されている時代です。牧師たちも少しくらいは「競争」の中に身を置くべきかもしれません。

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人生の目的

ブログを一年以上も書いてくると、前に何を書いたかを忘れてしまいます。繰り返しになっていることがあるかもしれません。でも、それはたぶん恥じることではなくて、私が結局最後に言いたいことは何かが、自分の中でよりクリアに言葉化されていくプロセスなのでしょう。

ここに何万字書いても原稿料をもらえるわけではありませんが、ここには字数制限もないし、編集長の方針に合わせる必要もない(私自身が編集長であるという意味です)。読まれる当てもありませんが、ただの暇つぶしで書いていることでもなく、ある方(それは「あなた」です)に読んでいただける日を待ち望みながら書いているものでもあります。

私は何を言いたいのか。それがはっきりと分かるくらいならブログなど書きはしないわけですが、私は何を言おうとしているのかとintend toという感じのニュアンスが加わってくるのであれば、ちょっとくらいは見えているものがあります。ただ単なる「自分探し」のようなことをしているわけではないつもりです。もう少し対社会性を有したいと思う。しかし、自分自身で大した実地調査や時間をかけた取材をしているわけでもないのに、政治や社会の問題に直接コメントするような評論家然とした書きっぷりも、なるべく避けてきたつもりです。私が直接かかわっている事柄は、狭くて小さいものです。

ずっと考えてきたこと、というか意識的に目指してきたこと、しかしそれは「ブログで」目指してきたことというのではなく、大学に入学してからの「人生で」目指してきたことについては、少なくとも一つだけははっきりしています。これを前にここ(ブログ)に書いたかどうかを忘れたなあと、さっきから苦にしているわけです。もし一度でも書いたことがあってそれを忘れて同じことを繰り返し書いてしまったら悔しいなあと。一年分のすべてを読み返す時間はないし(その気力もない)。

まあしかし、繰り返して書いて悪いわけでもないので、よし、書きましょう。今やっとそういう気になりました。

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2009年2月13日 (金)

アナクロニズムではなく「希望の神学」として

私が言いたいことは、技術社会そのものの否定とか、テレビそのものの否定ではないのです。まだ十分うまく言えませんが、嫌だと感じていることはテレビの「一方通行性」です。その押しつけがましさや強圧性です。

インターネットは、この点が全く違います。そもそも「テレビが嫌だ」と私はインターネットのブログに書いているわけです。つまり、技術社会の英知の賜物をある意味最大限利用しながらの発言でもあるわけです。

インターネットの場合は、まさに「嫌なら見なきゃいい」し、批判したい相手がいれば、自分でどんどん書き込んだりできます(私はそういうことは滅多にしませんが)。 ある程度の「双方向性」が確保されています。

前の記事に書いたことも、「地デジ切り替えの日に、いっそテレビそのものを捨てて、インターネット一本にしようかなと思わなくもない」という意味です。 インターネットを無批判に礼賛する意図はありませんが、この横暴なテレビよりはインターネットのほうが「人にやさしい」と感じます。

そもそも私には「技術社会には神を冒涜する要素が著しい。そのため神を信じる者たちは古い時代への回帰を志向すべきである。みんなで一緒に古き良き時代に帰りましょう!」というような発想そのものが皆無です。

そのような過去への回帰願望やアナクロニズムは「神学的に」間違っているとさえ考えています。それどころか、我々は事柄をもっともっと前へと・先へと進めていくべきであって、後戻りも後ずさりもすべきではないと思っています。人間に可能なことならば何でも(重大な犯罪以外は)積極的に行うべきであると信じています。この点で私は「希望の神学」です。

団塊世代より少し上の戦争体験者たちが何か誇らしげに「今の若い人は、あの戦争の苦労を知らないし、便利になった世の中に生きてきたから、だらしない」みたいなことを言っているのを聞くたびに、内心でむかっ腹を立てています。

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2009年2月12日 (木)

この支配からの卒業

子どもたちのせいにするつもりはありませんが、ここ10年くらい私はテレビなどほとんど全く見ていませんでしたのに、何となくつられて昨年くらいから見るようになりました。テレビなど見る暇もなく、まさに10年間、家では時間の許すかぎりメールを書いていました。ニュースもウェブで得ることで十分でした。実際今は、ウェブとテレビがほぼ同時に、同じ出来事を報じているようです。

何よりテレビのあのうるささが嫌でした。人のことは言えませんが、相当下品だという自覚のあるこの私でさえ「テレビは下品だ」と思う。ファン・ルーラーは、息子さんの話によるとテレビをよく見ていたようですが、見るのはサッカー番組でした。昔のサッカー番組は今と比べるとはるかに「上品」なものだったと思います。というか、つまらない。最近のビデオカメラで親が我が子の運動会を撮っているのと同レベル(かそれ以下)の映像がテレビで流れていたはずです。私の子どもの頃の(「昔の」とそろそろ言える1970年代くらいの)サッカー番組でも臨場感ゼロ。カメラが遠すぎて、選手一人一人が小さくて、表情とかも全く見えなくて、キーパー以外の20人が右に左にぞろぞろ移動している姿がかろうじて見えるというようなもので、退屈でしたが、サッカーが好きな人にとっては、あんなのでも面白かったのでしょう。

しかし、メールといい、ウェブといい、ずっとこれだけを続けていると、心理的な放出感というか「出ていく感」のようなものが募り、だんだん寂しくもなりました。シーンとした無音状態の中で、自分が叩くキーボードのカチカチ音だけがこだまする。独り言はなるべく言いたくないので、だれかにしゃべっていてもらいたくなる気持ちも起こる。そんなときに、たまーにテレビをつけてみる。でも、すぐにうるさくなって消すといった感じでした。テレビに出ている人々独特の「したり顔」というか「『わたしたちは勝ち組です』顔」みたいなのを見ていると不愉快になるという面もありました。

見るものを変えればいいという話なのかもしれません。「そんなに嫌ならNHK見れば?」とか「放送大学見れば?」とか。たしかに、テレビそのものを悪者にするつもりは私にもありません。テレビに出てくる人々を「見下げる」つもりもない(逆でしょ、と思う。たぶん彼らから見下げられているのは我々のほうです)。

しかし、そのうちテレビそのものと訣別したい。「もうええわ」と心底思う。尾崎豊っぽく(?)いえば、「テレビなるものの支配」から卒業したい。尾崎氏と私、同い年です(1965年11月生まれであることも同じ)。バットでぶち割るわけにはいきませんが(環境破壊だ)、これで終わりという儀式でもしたい気持ちです。「すべて地デジに変わる日」をもってテレビそのものからお別れするというのも、一つの選択肢かもしれません。

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2009年2月11日 (水)

意識的にテレビを見ない日を作ろうと今日はさすがに思った

「お笑い芸人」なる職種の人々の出るテレビ番組が、今日ほど耐えられないと思った日はなかったかもしれません。

うちの子たちがテレビを見たい盛りの年頃でもあるので、ついスイッチを入れっ放しになり、結局付き合ってしまうのですが、今夜ばかりは「小学1年(!)の子供と母親(40)が二人で踏み切りをくぐった」と伝える短いニュースの直後にあのゲラゲラ声を聞くと、さすがに頭に血が上りました。

人間には「悼む」とか「喪」というような次元がどうしても必要です。なぜその子はお母さんについていったのか。そのときその子はどんなことを考え、何を思い出していたのかと想像するだけで胸がしめつけられます。しかしまた、そのような一つ一つを落ち着いて考える時間がわたしたちには必要です。

と思った次の瞬間にゲラゲラゲラ。その押し付けがましい大音量の笑い声の圧力によって「喪」の思いがあっという間に相対化されてしまいます。悪意さえ感じます。

そういう笑い声に支配されている番組なんか見なきゃいいと言われるだけでしょうけれど、最近はあんなのが出てこない番組を探すのが難しいと感じるほどです。

「悼み」や「喪」の思いを大切にしたい日もあります。たとえ見知らぬ人の死であっても。

だから、思いました。今日から私は、意識的にテレビを見ない日を作ります。

あの鬱陶しいゲラゲラ声から、私は早く解放されたい。

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私の書斎、久しぶりの再公開

Dogmatics_2カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールトマンスに関しては、神戸改革派神学校の図書館には、パーフェクトかどうかは確認していませんが、たぶんほぼ全部揃っているのではないかと思います。

だから、私は神学生たちのことをとても羨ましいと感じているのですが、在学中にオランダ語の本に没頭する神学生が、残念ながら少ないのです。「宝の持ち腐れだ!」と言いたくなる面もあるのですが、3年3か月のうちにやらなければならないことが山ほどありすぎるので、彼らを責めるのは酷というものです。ただし神戸にはファン・ルーラーのものがあまりありません。これからの課題です。

(1) 私の書斎には、カイパーが住んでいません。『カルヴィニズム』の英語版と日本語版くらいしかありません。

(2) バーフィンクのものとしては、『改革派教義学』(GD)全4巻の原著オランダ語版の全部と英語版の一部をもっています。また、聖恵授産所出版部から『信徒のための改革派組織神学』という題で出ているMagnalia Dei(神の大いなるみわざ)の原著と日本語版(ただし下巻のみ)と、『啓示の哲学』(Wijsbegeerte der Openbaring)の原著と日本語版は持っています。このMagnalia Deiと『啓示の哲学』は、どちらも非常に重要な書物なのですが、残念ながら日本の教会においては全く軽んじられています。見た目(装丁)で負けているというか。

(3) トレルチは、昔の『著作集』(Gesammelte Schriften、GS)全四巻はありますが(※出戻り品)、現在刊行中の新しい著作集はありません。日本語版の著作集は全部あります。

(4) バルトは、『教会教義学』(KD)の原著と日本語版の全巻が揃っています。と言いたいところですが、原著が一冊だけ欠けています(残念!)。英語版(Church Dogmatics、CD)は持っていません。日本語版『カール・バルト著作集』も一冊欠け。ドイツ語版の著作集は10冊くらいあるだけです。バルトを取り上げた博士論文のうちオランダ語のものを集めているところですが、まだ10冊くらいです。

(5) ノールトマンスは、原著『著作集』(VW)が全部揃っています。と言えません。これも一冊欠けています。ノールトマンス研究書(博士論文)が、5冊ほどあります。

こんな感じの、かなり残念賞な書斎なのでした。

しかし、ファン・ルーラーに関しては、出版されたものについては、95%くらいは所有しています。

まさに「少しずつ少しずつ」です。お互い励まし合って行きたいものです。

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2009年2月 9日 (月)

一年前の記事を読み返して

自分の日記の過去の記事を読み返しているうちに、ほぼちょうど一年前に書いたことが目にとまりました。読みながら、「一年前からちっとも変わってないなあ」とがっかりする面と「一歩くらいは前進できたかな」と自負できる面の両方があると分かりました。昨年12月オランダにとにかく行くことができたのは、私にとっては(「私にとっては」です)一歩前進でした。しかし、後のほとんどの部分は、いまだに実現できていません。絶望などはしていませんが(私の辞書に「絶望」の二文字はありません)、果てしなく遠いものを今なお感じています。

「研究環境」の整備をめぐる主要課題(2008年2月28日)

私の少しばかりの経験から語りうることは、ファン・ルーラーの研究と翻訳を志す者たちの書斎(ないし研究室)に揃えておくべき必要最低限の文献は前記五名の著作(カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールドマンス(※註)、とくに彼らの『全集』や『著作集』や『教義学』の一式)であるということです。日本語版や他国語版があるものについては、それらを揃えることも「翻訳」のための有益な参考資料になります。そしてもちろん、彼らの著作を「揃えておく」というだけでは不十分であり、徹底的に読み込んでおく必要があります。しかし、上記五人の書物を読むためには、最低でもオランダ語とドイツ語の知識は不可欠です。また彼らの書物にはヘブライ語、ギリシア語、ラテン語の三大古典語はもとより、英語やフランス語あたりは遠慮会釈なく出てきますので、これらの外国語についての手ほどきをどこかで少しだけでも受けていないかぎり、全く手に負えません。以上のことが、言うならば「日本におけるファン・ルーラー研究」を可能にする大前提です(「ファン・ルーラー自身の著作を収集する」という点はあまりにも自明すぎる前提ですので、ここでは省略いたします)。しかしまた、これだけの前提がある程度までクリアされていれば、翻訳はかなりスムーズに進んでいくでしょう。ただし、これだけの「研究環境」を《整備する》ということのためだけに、軽く10年や20年くらいはかかるはずです。加えて、「語学留学」ができればベストでしょうけれど、そこまで行くとよほどの大富豪の家庭か、そうでなければ強大な組織(大学や教団や財団など)の後ろ盾があるような人にしか実現しえないでしょうし、一般家庭ならば文字通り「家屋敷を売り払うこと」でもしないかぎり無理でしょう。それに、飛ぶように売れる書物の翻訳でもあるならともかく、販売益を全く期待できない教義学の翻訳の前提を得るための出費なのですから、ある見方をすれば、ただの「道楽」か「趣味」、あるいは「放蕩」にさえ見えるかもしれません。この偏見や嘲笑との戦いにも相当の年月がかかることを、覚悟しなくてはならないでしょう。

(※註) 私は長らくdr. Oepke Noordmansを「エプケ・ノールドマンス」と表記してきました。しかし、この神学者の人名表記は「ウプケ・ノールトマンス」とすべきであるとオランダから帰国された慶應義塾大学の田上雅徳先生から御指摘いただきました。旧稿をいじくることはなるべくやめておきますが、今後は「ウプケ・ノールトマンス」と表記いたします。

ファン・ルーラーを読むために揃えておくべき文献は、カイパー、バーフィンク、トレルチ、バルト、ノールトマンスだけで尽きるものではありません。まだまだたくさんあります。ごく最近のことですが、フローニンゲン大学神学部でのファン・ルーラーの指導教授であったTh. L. ハイチェマの教義学教本(タイトルは『弁証学としての教義学』Dogmatiek als apologetiek)と、19世紀のユトレヒト大学で教えたJ. J. ファン・オーステルゼー(J. J. van Oosterzee)の『キリスト教教義学』(三巻本)を入手できました。

前者ハイチェマの教義学教本には、その前半部分で、バルトとブルンナーのいわゆる「自然神学論争」についての評価が徹底的に論じられています。そして、ハイチェマとしては、バルトの立場により近く立ちながら、ブルンナーが主張した「争論学」(Eristik)としての弁証学の意義を見出すとしています。

私自身は、キリスト教信仰の「弁証」、ないしあからさまに言うところの「護教」が行われないような「伝道」はありえないと考えてきました。とくに現代社会の中で「弁証学」を全く持たずに教会が立つことは、生身の体に砲弾を受けるに等しいものがあります。周りのどこを見回しても、我々を守ってくれるものは何もありません。守ってくれるものがあると思っている人は、勘違いしているのです。

我々は、自己弁護する必要があります。恥も外聞もなく。ただし、その場合の「弁証学」は、教会の外側から持ち込まれたようなヘンチクリンな理屈であってはなりません。比較宗教学のようなものを持ってきて、「キリスト教は他の宗教よりも相対的に上位にあることが論証されうる」だなんてことを言い張ったところで、何の意味もありません。笑止の沙汰です。

我々に必要なことは「教義学」そのものによるキリスト教弁証です。我々はまさに「弁証学」としての「教義学」の言葉を語ることによって、自分自身と教会員の生命と信仰を守らなければならないのです。それがどのように実現するかはともかくとして。

我々が考えるべき筋道は、「教義学」の座を「宗教哲学」や「宗教社会学」や「人間学」へと譲り渡すことではありません。おそらくは正反対です。求められることは、教義学そのものの固有の論理のうちに弁証学的機能を探ることです。あるいは、「宗教哲学」や「宗教社会学」や「人間学」の教義学的コアを探り当てて暴露すること、「あなたがたが取り組んでおられることも言葉の正しい意味での『教義学』(ドグマティーク)である」ということを自覚していただき、同じ土俵に立っていただく(または「知識の高みから引きずりおろす」)ことです。

ハイチェマの本は(買ったばかりですので)まだきちんと読んではいませんが、基本的スタンスとしては良いものであると感じています。そして、ハイチェマの基本スタンスが教え子ファン・ルーラーの「宣教(アポストラート)の神学」においてどのように受け継がれているかを見ていくことが重要であると思わされています。

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2009年2月 7日 (土)

丸山眞男を読んだことがない

私の交友関係によるところも大きいのですが、「私は丸山眞男の本を読んだことがない」という言葉を語ることに、つい最近までかなりの躊躇や抵抗がありました。人前でカミングアウトできずに来ました。しかし。

あはは、実は私、丸山氏の本を全く読んだことがありません。買ったこともありません。本を手に取って頁をめくったことくらいはありますが、3ページも、いや、2ページも読んだことがありません。

「嫌いなのか」と問われたら「別に嫌いではない」とたぶん答えますが、現時点では「ほとんど関心がない」としか答えられません。

理由は自分でも分かりません。難しい本ならけっこう読んできたほうだと思っています。最近はオランダ語の本を読むことがあまり苦にならなくなりました。日本語の本もわりと読んでいるつもりです。

しかし「丸山眞男を読んだことがない」。やっとこういうことを口に出して言えるようになったことを(その際おそらく私は「何かの呪縛から解放される」というプロセスを通り抜けているはずです)私の神に感謝しています。

解放のきっかけは、親友である(と私は思っている、ちょっと年上の)大学教員の言葉です。「ぼくはジャック・デリダを読んだことがない。」

ああ、こんなふうに言える文化系の知識人に会ってみたかったのだと、そのとき感じました。ちなみに私は、デリダのほうは20年くらい前から、関心をもって読んできました。

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2009年2月 2日 (月)

「改革派神学研修所 東関東教室ホームページ」を立ち上げました

このたび「改革派神学研修所 東関東教室」(世話人 安田恵嗣、三川栄二、持田浩次、小林義信、関口 康)は、東関東教室のホームページを立ち上げましたので、謹んでご連絡申し上げます。

改革派神学研修所 東関東教室ホームページ
http://higashikanto.reformed.jp/

このホームページアドレス(URL)を教会の皆様にお知らせいただけますと助かります。また各教会のホームページにリンクしていただきたく、よろしくお願いいたします。

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