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2008年6月

2008年6月24日 (火)

カルヴァンの神学における《人間的なるもの》の評価

昨日6月23日(月)、「第18回日本カルヴァン研究会」(会場・青山学院大学)において、「カルヴァンの神学における《人間的なるもの》の評価――Dr. J. van Eckの研究(1992年)に基づいて――」という研究発表を行いました。発表後の質疑応答のなかでいろいろと有益なご指摘をいただくことができ、楽しく充実したひとときを過ごせました。以下は、会場で配布したレジュメです(語句や翻訳の誤りなどは、若干修正いたしました)。

関口 康 「カルヴァンの神学における《人間的なるもの》の評価――Dr. J. van Eckの研究(1992年)に基づいて――」(レジュメ) ←Please Click!

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2008年6月21日 (土)

説教における「反射性」の問題

オランダの改革派神学者A. A. ファン・ルーラーが聖霊論において重んじた概念の一つは「反射性」(reflexiviteit)です。この概念の正確な意味を説明することは難しいですが、とりあえずすぐに言えそうなことは「跳ね返ってくること」であり、いくらか敷衍して言えば「(コミュニケーションにおいて)一方通行でないこと。レスポンスがあること」くらいでしょうか。

この「反射性」を現代の説教学に応用した一人が、ドイツの説教学者R. ボーレンです。説教はたしかに「反射性」を有しています。すなわち、神の言葉(verbum Dei)としての説教は、決して一方通行的なものではない。聖霊論的な「反射性」におけるコミュニケーション的な相互性を有するものであると言わねばならない何かです。この言い方はややこしいかもしれません。説教者は、説教において会衆との(心の中での)対話を行うものであるというくらいに言うほうがよいかもしれません。

しかも私自身の感覚では(“私自身”の“感覚”では、です)、説教者と会衆との対話とは、単なる(心の中での)「言葉のやりとり」だけではありません。あくまでもたとえですが、会衆は説教者のネクタイの色やネクタイピンの有無、あるいはブラウスの色や眼鏡のデザインなどに関心があります。説教者の髪型、そして髪の色や量(?)に関心があります。説教者の目線や目つき(?)にも関心があります。語り口のスピードや声の高さ(または低さ)を気にしています。あるいは、会衆は説教者がいま語っていることと、これまで語ってきたこと、また他の説教者の口から聞いた説教の内容との“整合性”があるかどうかを直感的に見抜きます。

以上はほんの一例です。すべてを逆にして考えることができます。説教者は会衆の存在を意識しながら語ります。会衆の存在における上に挙げたような事柄のすべてを気にしています。疲れた表情をしておられる方を見ると、まず最初に「私の説教のどこかに問題があるからか」と疑ってみますが、同時に「昨日までの一週のあいだに何かつらいことでもあったのか」と説教の最中に想像をめぐらします。それが、説教の内容に影響を及ぼすのです。会衆の表情が全く見えておらず、ただひたすら(徹夜で書き上げた)説教原稿だけに目を落として棒読みしているだけの“説教”を「説教」と呼ぶことはできません。

語っている最中に選挙演説やウグイス嬢の大音量の黄色い声が聞こえてきて、説教が中断されそうになることもあります。突然の暴風雨や地震が起こり、わが家の安否を気遣ってソワソワしはじめる会衆の表情や態度も、説教者にははっきりと見えています。しかしまた、その説教者の目を会衆は見ています。「そんなに気にしなくてもよい」というアイコンタクトを送ってくださる方もいますが、「そろそろ説教を締めくくってほしい」と無言で訴えておられる方もいます。その真剣な訴えに気づくこともなく、自分が書きあげた説教原稿を何が何でも最後まで読みとおす“説教者”は、「良い説教者」でしょうか。私には疑問が残ります。

説教における「反射性」は、まさにこれらすべての要素を含んでいます。そこで起こるのは言葉の反射だけではなく、“空気”の反射が起こるのです。そのような“雰囲気”(atmosphere)ないし “環境”(environment)のなかで説教は、よく弾むスーパーボールのように部屋中をビヨンビヨンと飛び回るのです。

私自身は、このようなことが説教においては不可欠であると信じています。また、それゆえにこそ、私は、「インターネット伝道」というものはきわめて困難、またはほとんど不可能であると考えています。電気信号のやりとり、せいぜい“文字”や“画像”や“動画”のやりとりは「説教」を成り立たしめるほどの“雰囲気”ないし“環境”までは伝達できないと信じているからです。

「自分の掲示板への書き込みにだれもレスポンスしてくれない」という理由で孤独を感じて暴走した人がいましたが、それは孤独を感じる人のほうが悪いのです。インターネットとはそういうものであるという認識が足りない、または欠如しているのです。「反射性」は、最少でも“同じ部屋にいる”というくらいのことなしには、ほとんど期待できません。残念ながらというべきかもしれませんが、それが現実です。

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2008年6月20日 (金)

神学における「実現性」の問題

今週、火曜日から昨日まで静岡県浜松市で日本キリスト改革派教会の「大会役員修養会」が行われました。その中で近藤勝彦先生の講演が行われました。日本キリスト改革派教会の多くの教師・長老たちにとっては近藤先生との初顔合わせの機会だったようです。多くの人々がとても喜んで近藤先生の講演を聴いていた様子が印象的でした。

私にとって近藤先生は「恩師」(かぎかっこをつけておきます)です。ファン・ルーラーの存在を最初に教えてくださったのも近藤先生です(リューラーですけどね)。24年前、東京神学大学一年(当時18歳)のときに、ドイツ語と哲学とを教えていただきました。組織神学(教義学・倫理学・弁証学)の講義は、近藤先生からは受けていません。

教義学と弁証学の講義は大木英夫先生から、倫理学の講義は佐藤敏夫先生から受けました(今「砂糖と塩」と誤変換しました)。芳賀力先生はまだハイデルベルクにおられた頃です。また、近藤先生には卒業論文(ティリッヒの霊的現臨の概念について)と修士論文(トレルチの倫理思想について)の指導教授にもなっていただきました。もし「あなたは近藤シューレか」と聞かれれば「そうかもしれません」と答えるかもしれません。

しかしまた、私にとって近藤先生の存在は、ある意味での“格闘相手”であり続けました(すべての学問が「恩師への批判」から始められるべきであると別の方から教えられたことがあります)。もっとも、私が直接的な仕方で近藤先生に立ち向かったことはありませんし、近藤先生が私の“相手”をしてくださったこともありません。コドモの相手をしてくれるほど近藤先生はヒマではありません。

ただ私は、「近藤理論は(少なくとも私の生きている間の)日本基督教団の中には実現(リアライゼーション)の場がない。手がかりさえもない」という確信を得ました「ので」、今からほぼ10年前のことですが、日本基督教団の教師であることをやめて日本キリスト改革派教会の教師として加入させていただくという経緯をたどりました。ですから、このたび日本キリスト改革派教会の教師と長老が近藤先生の講演を聴いて「我が意を得たり」と喜んでおられる姿を見ることができたとき、私が10年前に抱いた“確信”は外れていなかったようだと、ちょっとだけほっとしました。

ただし、今の私は「近藤理論」のすべてに同意したままではありません。大きく違ってきているところもあるということを、このたび確認できました。「神学」には「実現(リアライゼーション)の場、あるいは最低でも実現の手がかりとなるような“教団”(Kirche)」が欲しいと願うのは、私だけでしょうか。おそらくファン・ルーラーならば、「神学」は“教団”(kerk)を要求するだけではなく、“国家”(staat)をも要求する、と語るでしょうけれども(23世紀くらいの日本の神学者には「国家の神学」を大いに論じてもらいたいと願っています)。

ともかく「神学」は我々の脳内妄想であるべきでないと思います。美文の並ぶ二次元の紙面から立ち起こして事柄を三次元化していかねばならない。そのとき美文は乱れ、思想の構造は傷を負い、“売れない本”になっていくでしょうけれども、それでよいのではないでしょうか。

しかし、「説教」は支離滅裂化すべきではありません。できるかぎりクリアであるべきです。「説教」をクリアにするためにこそ「神学」がさまざまな傷を負うべきであると思います。別の角度から換言すれば、神学校(神学大学)は教会のために存在するのであって、その逆ではないということです。「神学校(神学大学)の存続のために教会が犠牲にされる」という事態が一瞬でも起こるとしたら、それは本末転倒なのです。

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2008年6月14日 (土)

2008年度研究発表計画

今年度の研究発表を以下のように計画しています。

(1)「第18回 日本カルヴァン研究会」(2008年6月23日(月)午前10時~4時、青山学院大学、東京都渋谷区渋谷)の午後の部で、「カルヴァンの神学における《人間的なるもの》の評価―Dr. J. van Eckの研究に基づいて―」という研究発表を行います。久米あつみ先生、宍戸基男先生の研究発表、永井恵一氏によるジュネーヴ詩編歌の指導があります。一般聴講料1,000円(茶菓付き)、どなたも参加できます。

(2)「日本基督教団改革長老教会協議会教会研究所主催 第8回研究会」(2008年6月30日(月)午後2時~7時、日本基督教団洗足教会、東京都品川区旗の台)で、「現代の改革派神学における《人間的なるもの》の評価―A. A. ファン・ルーラーの神学の核心―」という講演を行います。落合建仁先生、松島保真先生、塚本栄興先生の研究発表があります。会費1,000円(夕食代等)、夕食不要500円(当日申込可)、どなたも参加できます。

(3)神戸改革派神学校紀要『改革派神学』第35号(2008年10月1日発行予定)に、「説教・教会形成・政治参加、そして神学―A. A. ファン・ルーラーの《教会的実践》の軌跡―」という文章を掲載していただけることになりました。これは2007年9月10日ファン・ルーラー研究会第5回神学セミナーでの研究発表「伝道と教会形成、そして神学」をもとに、大幅に加筆修正したものです。

まだ加わるかもしれません。チャンスを与えてくださった皆様に感謝しています。ご支援いただけますとうれしいです。

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