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2008年3月

2008年3月29日 (土)

教会の奉仕について(総論)

少し前のことになりましたが、3月16日(日)に松戸小金原教会で毎年恒例の「教会勉強会」の第一回目を行いました。発題は関口康、タイトルは「教会の奉仕について(総論)」でした。

レジュメ(修正版) http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/2008-03-16_Ecclesiologie.pdf

「教会の奉仕について(総論)」目次

 1、「教会の奉仕」とは何のことか

 2、教会の目的は「教会の外」にある

 3、「教会の外」は悪魔の巣窟ではない

 4、「キリスト者の社会奉仕の主体ないし母体としての教会の確立」という課題

 5、具体的な奉仕の基準としての「律法」

※2007年度発題 「主の日と週日」

レジュメ(修正版) http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/2007-03-18_Ecclesiologie.pdf

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2008年3月27日 (木)

それにしても翻訳は難しい!(5/5)

再び翻訳の話に戻ります。私は後者(訳例 2)ですっかり満足しているというわけでもありません。前者(訳例 1)には利点もあります。ファン・ルーラーは明らかに、「聖餐式」と「家庭の食卓」、「教会の礼拝」と「芸術」、「魂の救い」と「日々の雑事」を対比的にとらえているからです。それは「教会の内(intra)と外(extra)」の対比であると言ってよいでしょう。ファン・ルーラーがこの対比を行っているということを明確に表現できるのは前者(訳例 1)のほうかもしれません。ああ、翻訳とはなんと難しいものなのでしょうか!しかし、「だからこそ」です。そう、翻訳は「難しいからこそ面白い」のです!「翻訳」にはそれに取り組む者たちの想像力を著しく刺激し、膨らませていくものがあります。日々の雑事に追われて翻訳に取り組めないでいると、私の頭は、一種の“脳死状態”に陥っているのではないかと感じるほどポケーとしてしまいます。

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それにしても翻訳は難しい!(4/5)

この一文の中でファン・ルーラーが語ろうとしていることは、キリスト者の信仰的実践(praxis pietatis)にとって最も大きな意味がある「神のすべてのみわざを見つめる目」が向けられるべき対象は何かということです。その目は、教会の壁の内(intra muros ecclesiae)における神のみわざ(聖餐式、教会の礼拝、魂の救い)を見つめるだけで終わってよいものではなく、教会の壁の外(extra muros ecclesiae)における神のみわざ(家庭の食卓、芸術、日々の雑事)をも見つめるものでなければならないということです。言葉を換えて言うならば、ファン・ルーラーが勧めていることは、キリスト者である者ならばこそ、「教会」に対して《内向きな》態度をとることだけに終始してもよいようなものではありえず、むしろ常に《外向きな》態度をとり続けるべきであるということです。“世俗化”(ontkerkelijking=脱教会化=教会と国家の分離)の不可逆的プロセスの中にある現代社会においてキリスト者が陥りやすい「教会への引きこもり」を、ファン・ルーラーは警戒しました。世間の中へと堂々と出ていき、「政治的な」責任を負う勇気を持ちなさいと訴えました。キリスト者が「不信仰な世間の人々」をあまりにも邪悪なものとみなして嫌悪感や恐れを抱き、その人々から遠ざかり、教会の砦に立てこもり続け、外側へと一歩も出て行こうとしないこと、なかでも「政治的な事柄」に関わろうとしないことは、「この世界と人類を創造された神への冒涜である」とさえ語りました。ファン・ルーラーの「宣教(アポストラート)の神学」が示すベクトルは、「教会への引きこもり」とはちょうど正反対の方向を向いているのです。

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それにしても翻訳は難しい!(3/5)

一例を挙げてみます。ファン・ルーラーの文章について、いくつかの訳例を作ってみました(いずれも私訳です)。

(原文)

Voor de praxis pietatis van de enkele christen is het van de grootste betekenis, dat hij in zijn omgang met God oog heeft voor alles, wat God doet: niet alleen voor het avondmaal, maar ook de maaltijd thuis; niet alleen voor de liturgie van de kerk, maar ook voor de kunst; niet alleen voor de redding van zijn ziel, maar ook voor de dingen van het dagelijkse leven. (A. A. van Ruler, De waardering van de rede [1958] , Verzameld Werk, deel 1, 78.)

(訳例 1)

神との交わりにおいて神のなされるすべてのみわざを見つめる目を持つことは、キリスト者個人の信仰的実践(または敬虔の修練 praxis pietatis)にとって最も重要なことである。その目は、「聖餐式」だけではなく「家庭の食卓」をも、「教会の礼拝」だけではなく「芸術」をも、「魂の救い」だけではなく「日々の雑事」をも、見つめるのである。

(訳例 2)

「聖餐式」や「教会の礼拝」や「魂の救い」などは重要ではないと言いたいわけではない。しかし、キリスト者の信仰的実践(または敬虔の修練 praxis pietatis)は、そのようなことだけに終始するものではないのである。キリスト者の信仰的実践にとって最も重要なことは、神との交わりにおいて神がなされるすべてのみわざを見つめる目を持つことである。その目は、「家庭の食卓」や「芸術」や「日々の雑事」をも見つめるのである。

前者(訳例 1)のほうが「原文に忠実な訳」であるつもりで書きました。原文の構文を守りつつ、原文の各単語と日本語の辞書的意味との「一対一」の“パッチワーク”を行ってみました。しかし、この文章は、日本語として理解できるものでしょうか。これを読んで「ファン・ルーラー先生の意図が分かりました!」とすぐに返事できる方がいるとしたら、その方はかなりの天才です。これに対して私自身は、許されるならば後者(訳例 2)の方向に進んでいきたいと願っています。これでもまだまだ日本語として理解しにくい文章であることは承知しています。しかし、「著者(ファン・ルーラー)の意図を明らかにする」という一点においては、前者よりも後者のほうがよいと信じています。

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それにしても翻訳は難しい!(2/5)

しかし、「翻訳」は難しい!オランダ語が難しいのではありません。日本語が(!)難しいのです。私が心から尊敬する翻訳者であり・翻訳理論研究者である山岡洋一(『翻訳とは何か 職業としての翻訳』の著者、『翻訳通信』主筆)のおっしゃるとおり、「英文和訳は翻訳ではない」のです。「翻訳とは日本語」なのです。原文の各単語に日本語の辞書的な意味を「一対一で」当てていくだけの“パッチワーク”は「翻訳」ではないのです。山岡氏はヘーゲルの翻訳者を例に挙げて説明しておられます。金子武蔵氏のやり方は「独文和訳」ではあっても「翻訳」ではありません。日本語としては支離滅裂だからです。長谷川宏氏のやり方こそが「翻訳」なのです。長谷川氏の訳文は、まさに日本語だからです。私が常に悩んでいることはこの問題です。私の見方では、キリスト教出版界、特に「神学」の世界においては、今書いたような「翻訳」についての考え方がいまだに定着していません。新共同訳聖書に採用された動的等価訳(dynamic equivalence)という方法でさえ、いまだに「あれは意訳である」という言葉で批判する人が少なくありません。その場合の「意訳」とは「原典に忠実でない、いいかげんなもの」という意味です。殺し文句の一種です。「原典に忠実な訳」と謳われているものはたいていパッチワークのままです。金子武蔵型です。日本語としては支離滅裂です。「ファン・リューラー」名で教文館から出版されたもののうち特に『伝道と文化の神学』(長山道訳)に関しては、残念ながらこの点が全く当てはまります。『伝道と文化の神学』を買って読んだ人々に「ファン・リューラーの神学とはなんと支離滅裂なものであり、我々にとって理解不可能なものなのか」と思われ、関心を失ってしまわれることを非常に懸念しています。ファン・ルーラーを知りたい人は、どうかあの本は読まないでください。あのような支離滅裂なものが世に出ることは、著者ファン・ルーラーに対しても、世界のファン・ルーラー研究者たちに対しても、日本の「ファン・ルーラー研究会」に対しても、世界中のファン・ルーラーの愛読者たちに対しても、失礼なことであり、迷惑なことです。長山訳は「原典に忠実な訳」であるがゆえに、日本語としては支離滅裂なのです。つまり、山岡洋一氏が見れば「翻訳ではない」と判断されるものなのです(私は長山氏を個人的に知っており、尊敬しており、将来に期待を寄せているゆえに、あえて厳しい言葉を用いて氏の訳業を批判してきました。私怨等は皆無です)。

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それにしても翻訳は難しい!(1/5)

断片化の日々は続いています(「拡散化」とも言いたいです。実態は「散逸化」ですが)。しかし、日記は書き続けることに意義がある。手書きの日記については字義どおりの三日坊主だった私が、このブログを三ヶ月も続けている。この手軽さというか気軽さはすごいと思います。ニフティの「ココログ」の使いやすさを宣伝しておきます。神戸改革派神学校の二年次に編入し、牧田吉和教授のもとでファン・ルーラーの著作を読みはじめたのは、1997年4月のことです。来月でちょうど11年になります。ただし私の場合、当然のことながら最初は英語版のテキストしか読むことができませんでした(当時は英語も苦手でしたが)。米国カルヴァン神学校のジョン・ボルト教授編訳の英語版論文集です。牧田教授はオランダ語版をもって、神学生たちはボルト訳の英語版をもって、ファン・ルーラーをテキストにしての組織神学セミナーが始まったのです。11年前は、オランダ語原典を読むことは私には永久に無理だと思っていました。しかし、英語版に多くの誤訳があることなどが分かってきますと、やはりオランダ語原典を読む必要がある、いや“読まざるをえない”と、強く迫られるものを感じるようになりました。それが私の蘭学事始となったのです。

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2008年3月19日 (水)

ただいま断片化中(3/3)

「牧師の仕事かそれとも神学研究か」は、現実的には《あれか・これか》の選択肢なのかもしれません。両立させることは不可能かもしれません。しかし、です。たとえそれが今や不動の現実であるとしても、そんな“現実”の前に易々と屈服したいとは思いません!体のどこかがへし折れることなど、大した問題ではないのです。私は「神学し続ける牧師」でありたいと願っています。だからといって牧師であるかぎり、どんなに間違っても引きこもるわけにはいきません。「引きこもり」と「牧師」は対立概念であると信じるからです。牧師であるかぎり思想の断片化は避けられません(ありとあらゆる事柄に首を突っ込む仕事です)。しかし、機動性を失わない牧師であるままで神学研究を続けたいのです。その点では、昨年から利用しているノートパソコン(VAIOです)や無線LANやUSBメモリーの存在感は大きいです。私がこれまで書いてきた20年分くらいの文書や、その他の大量のデータを常に持ち歩くことができる現在の状況は、私にとっては“奇跡”という以外に表現のしようがありません。

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ただいま断片化中(2/3)

実際には、まさに留学を思い詰めていたその時期に、椎間板ヘルニアを発症してしまいました(現在は完治しています)。発症の原因は、初めから分かっていました。牧師の仕事と神学研究を両立させたかっただけです。睡眠時間を削って、オランダ語のテキストと格闘していただけです。意志と計画と情熱があっても、そこに体力と財力が伴わないかぎり実現しない夢があると知りました。しかし、「神学すること」と「留学すること」は別の話です。留学が自動的に人を神学に向かわせるわけではありません。外国に行かなければ本格的な神学研究は不可能であるというのであれば、日本に神学校が存在する意味はありません。存在する意味がないなら、やめちまえばいいんです、そんなものは。また、日本語で神学することは不可能であるというなら、日本語で説教することも不可能です。日本語で説教はできるが神学はできないということはありえません。「日本語に翻訳することができない神学」というようなものがもし存在するとしたら(たぶん存在しないと思いますが)、それは日本には不要の神学であるということです。ただし、テキストが日本では入手できないという場合は別です。私の場合は、ファン・ルーラーのテキストの中に日本にいてはどうしても入手不可能なものがあると知ったので、それを手に入れるために現地に行ってみたかっただけです。本当にそれだけなのです。しかし、昨年から刊行が始まった新しい『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld werk)が私の願いをかなえてくれるかもしれません。従来はユトレヒト大学図書館の「ファン・ルーラー文庫」(Van Ruler Archieve)に行かなければ入手不可能であった(しかも、現地に行ったところで、さらにそれらを閲覧するチャンスを得るまでにはきわめて多くの難関がわが身を待ち受けているだろうと容易に想像できた)膨大な量の未公開テキストが、新しい『著作集』を通して全世界に公開される可能性が高まったのです。私の関心はオランダ観光ではなく(そもそも旅行というものに全く興味がありません)、テキストを入手したかっただけです。チューリップにも風車にも関心がありません。教会の古い建物も、写真で見るだけで十分です。現地に行って観たいという関心まではありません。長崎のハウステンボスにも行こうとしない人間が、なぜ何時間も飛行機に乗ってまでそういうものを観に行こうとするでしょうか。私はそのような人間なのです。もし新しい『著作集』が私の積年の夢をかなえてくれるなら、わざわざ高いお金を支払い(そもそもそのようなお金はどこにも存在しないわけですが)、大きなリスクを背負ってまで外国に行く理由は、私にはありません。

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ただいま断片化中(1/3)

牧師だけではないことは分かっているつもりですが、牧師の仕事はとかく断片化しやすいものであると実感している今日この頃です。要するに「忙しい」毎日を過ごしています。先週末は、礼拝説教の準備はもちろんのこと、横浜市まで出かけて納骨式を行ったり、教会の勉強会の発題原稿を書いたり、頼まれブログの更新を行ったりしていました。お客さんもありました。最近は妻へのいたわりの気持ちをこめて家事(炊事、洗濯、掃除、ゴミ出し、子供たちの塾への送り迎えなど)にできるだけ参加するようにしていますので、家の中でも立ち働き続けています(妻との関係に限っていえば、私はかなりのフェミニストであると自覚しています。この気持ちを妻が理解してくれるかどうかは別問題ですが)。そして次週の日曜日はイースター(復活日)です。どこの教会も似たようなものだと思いますが、午前7時からイースター祈祷会、8時から朝食、9時から日曜学校イースター礼拝、10時30分からイースター礼拝(召天者記念礼拝)、午後イースター愛餐会・祝会、午後4時から夕拝。それらの一つ一つを前もって具体的に準備していかなくてはなりません。これらのことは、もちろん私だけではなく世界中の牧師たちが、今の時期に取り組んでいることです。ことさらに苦労自慢をしたいわけではありません。牧師などよりもはるかに忙しい方々がおられることもよく分かっているつもりです。しかし、牧師もけっこう忙しいのです。毎日書くことを自分に義務づけたはずの日記ブログを続けることができません。物事を深くゆっくり考え、かつその考えをある程度の長さの言葉になるまでにまとめあげるという作業ができません。いただいたメールへのお返事さえ滞っております(お待ちいただいている方々には、たいへん申し訳ございません。まもなく書きます)。何年か前に立ち読みではなくちゃんと買って読んだ吉本隆明氏の『ひきこもれ ひとりの時間をもつということ』(大和書房、2002年)は、特に感動したというほどのものではありませんでしたが、わりとスムーズに読めましたし、「そりゃそうだよね」と納得できたものでした。数年前、「ファン・ルーラー研究」を窮めてみたいとオランダ留学を思い詰めていた頃には、もし誰かから「引きこもってもいいですよ」と言っていただけるなら、とことん引きこもってみたいと願った日が何度あったか数えきれないほどでした。しかし、そのときも私は、第一義的に「教会の牧師」でした。牧師であることを辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。というか、教会の牧師であることを辞めて神学を窮めることの意味がよく分かりませんでした。

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2008年3月13日 (木)

アジア・カルヴァン学会のブログを更新しました

「アジア・カルヴァン学会第五回講演会」の報告(執筆者 野村信代表)を同学会公式ブログに掲載しました。講演者とコメンテーターの写真付きです。

アジア・カルヴァン学会公式ブログ http://society.protestant.jp/

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2008年3月11日 (火)

「日本改革教会協議会」と「アジア・カルヴァン学会」

昨日は「日本改革教会協議会」(会場・日本基督教団白金教会、JR目黒駅から徒歩3分)に出席した後、JR山手線に乗り、「アジア・カルヴァン学会講演会」(会場・立教大学、JR池袋駅から徒歩10分)に出席しました。前者のテーマは「礼拝式文について」、後者は「ルターとカルヴァンの聖書解釈について」でした。二つのグループは組織も課題も目的も異なるものですが、どちらも「カルヴァンの伝統」に立っているという点だけは明言できると思います。もともと私は後者でコメンテーターを務める予定だったのですが、前者への出席が要請されたため、コメンテーターの仕事はお断りせざるをえませんでした。しかし、私の代わりに(「代わりに」などと申してよいかどうかは分かりません)急遽コメンテーターをお引き受けくださったのが、なんと加藤武先生(立教大学名誉教授)。私が引き下がったことで出席者への恩恵が倍増して、ほっとしました。加藤武先生のお訳しになった教文館刊『アウグスティヌス著作集』の「キリスト教の教え」は、加藤常昭先生はじめ多くの人々に「名訳」と絶賛されたものです。ちなみにこのアウグスティヌスの「キリスト教の教え」の中にかの有名なfrui(享受)とuti(使用)の区別が出てきます。アウグスティヌスによると、frui(享受)してよいのは「神」のみであり、神以外の「事物」はuti(使用)するのみである。このアウグスティヌスの思想はカルヴァンと改革派教会の神学においても色濃く継承され、たとえばウェストミンスター小教理問答第一問の答えとして有名な「人生の主たる目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶこと(enjoy God=frui Dei=神を享受すること)である」などに表現されてきました。ところが、この区別をファン・ルーラーは「キリスト教会が犯した最大の過ち」と呼んで激しく批判しました。とくに1950年代から1960年代にかけて公表された論文に同様の発言が繰り返し出てきます。そしてファン・ルーラーは、「人生の目的」(bestimming van de mens)とは、神が創造された世界を喜ぶこと(frui mundo)であり、かつ自分自身を喜ぶこと(frui sui)であると、アウグスティヌスに反対して(!)主張しました。私などは、アウグスティヌス先生を批判することなどあまりにも恐れ多くて想像すらしたことがありませんでしたので、ファン・ルーラーのアウグスティヌス批判に初めて接したときは、卒倒しそうなくらい動揺しました。しかし今では、ファン・ルーラーの論調に慣れてきた面もありますが、「よくぞ言ってくださった」という思いです。

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2008年3月 7日 (金)

インプットとアウトプット

昨日の日記に、「ファン・ルーラーの著作を読んでいるときがいちばん幸せを感じられる」という趣旨の言葉を、確かに書きました。これは正直な気持ちです。しかし、こういう言葉は誤解を生みやすいものかもしれません。その前後に行ったこと、すなわち、入院している方の訪問、牧師館の大掃除、中会の委員会などには「幸せを感じられない」という意味ではありません。これとあれを見比べて、こちらはつらいがあちらは楽しいと言いたいわけではありません。しかし強いて言うならば、ファン・ルーラーの著作を読むことは私にとって「疲れ果てた体と心を温泉で癒すこと」に似ているかもしれません。ファン・ルーラー自身にもその自覚があったようです。たとえば、月曜日に訳していた論文「教義の進化」(De evolutie van het dogma)の中に「教義それ自体に贅沢や遊びの要素がある」(Het dogma heeft iets aan zich van luxe en spel)という名言が見られるように、です(A. A. van Ruler, Verzameld werk, deel 1, Boekencentrum, 2007, p. 285)。そのとおり!神学、とりわけ教義学には確かに「贅沢や遊びの要素」があります。旅行よりもスポーツよりも楽しい要素があります。そう感じるのは、おそらく私にとって神学の学びは「インプットの側面」だからです。生のエネルギーの充填です。それに対して、教会や中会や大会などの仕事は「アウトプットの側面」です。神学の学びが本当にただの学びだけで終わるとしたら、限りなく空虚そのものです。神学は、《地上の世界》と《地上の教会》と《地上の人間》の諸現実の中で(試行錯誤のうちに)実践されることによって検証されなければなりません。しかし、インプットなしのアウトプットは息切れの原因です。ガソリンを入れないで自動車を走らせようとするようなものです。牧師のガソリンは神学です(「牧師の」だけではないことは分かっていますが、今は私自身のこと(愚痴のようなことですが)を書いている場面なので)。新しく設立されたばかりの東関東中会には、東部中会のような「神学研修所」はありません。活力の源が近くにないことは、牧師が力を失う原因になります。神戸改革派神学校は、距離が遠すぎて手が届きません。松戸小金原教会の牧師館から自動車で一時間弱も走れば「東京キリスト教学園」(東京基督教大学・東京基督神学校・共立基督教研究所。いずれも千葉県印西市)、また二時間強走れば(外環自動車道を利用してのことです)私の出身校「東京神学大学」(東京都三鷹市)に到着します。関東地方に「改革派教義学」と「ファン・ルーラー」をキーワードとする具体的な人間関係を作っていきたいと願っています。そして各地でファン・ルーラーの読書会が開かれることを期待しています。もし私にもお助けできることがあれば、何でも喜んでさせていただきます。これまでの実績としては、2004年9月から3月までの半年間、「東京キリスト教学園」で学生有志のファン・ルーラー研究会を開くことができました(講師は関口 康)。学生さんたちは、とても熱心に、また楽しそうに参加してくださいました。メーリングリストは9年も続けてきましたが、インターネット上のやりとりには、この熱気を感じることが難しいのです。

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2008年3月 6日 (木)

いろいろやっていました

一週間ほど日記を書けませんでした。パソコンの前には毎日いたのですが、いろいろあって忙しかったことと、特に書き残したい言葉が見つからない日が続いていたことが原因です。先週金曜日は、入院しておられる方を訪問しました。土曜日は、牧師館内外の大掃除を行いました。腰痛を起こすほど夢中で片付けました。おかげで、身辺がかなりすっきりしました。今週火曜日は「東関東中会伝道委員会」がありました。書記である私にとっては、負担や責任が小さくありません。昨日水曜日は、水曜礼拝。その中で、気持ちの上で最も充実感があったのは今週月曜日です。久々にファン・ルーラーの論文の翻訳に没頭することができました。「私は生きている」と実感できる瞬間です。心に喜びがあふれます。奇妙なやり方かもしれませんが、ファン・ルーラーの二つの論文を同時並行的に訳していく方法を採りましたところ、自分でも驚くほどスムーズに訳筆を進めることができました。二つの論文とは、1958年の「理性の評価」(De waardering van de rede)と1959年の「教義の進化」(De evolutie van het dogma)です。どちらも昨年9月に刊行が始まった新しい『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld werk)の第一巻に収録されています。この二つは、執筆された時期が近いためでしょう、内容や方向において重なるところが多くありますが、なおかつ、後者には前者からのさらなる発展の要素も見られ、思索の深まりや広がりを感じることができました。二つの論文を同時に翻訳するという芸当は、少なくとも私にとっては、パソコンを持っていなかった頃には全く考えられないことでした。便利な時代になったものです。

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