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2005年8月

2005年8月 1日 (月)

「改革派エキュメニズム」についての一私見

ファン・ルーラーが繰り返し強調した表現によりますと、「改革派教会」(Reformed Church)とは、本来的に、「改革された公同教会」(ecclesia catholica reformata)です。

「真に公同的であること」(Being Catholic)と「真に改革派的であること」(Being Reformed)とは、矛盾しないどころか、むしろ全く一致します。

端的に言って、真の「公同教会」をめざすエキュメニカル運動に消極的な教会は、何ら「改革派教会」ではありません。

ただし、エキュメニカル運動には、しかるべき手順が必要です。

どこかで聴いたことがあるフレーズを使わせていただくとするならば、単に「大が小を飲み込む」だけのようなエキュメニカル運動は(そういうものがあるとしたら、の話です)、ただの野合であり、インペリアリズムの一種です。

たとえば、アウグスティヌス主義者とペラギウス主義者が、あるいは、カルヴァン主義者とアルミニウス主義者が、きちんとした議論を行う正規の“法廷”(「教会会議」のことです)や、そこでの議論もないままで、一つの教団の中で、「神学的に」共存できるでしょうか。

「神学的に」共存できていないのに、一つであろうとしているような教団・教派のことを、ひとは野合と呼ぶのです。

「キリスト教会、もとは同じじゃないか」とか、「神はおひとりじゃないか」というような論理も、もちろん、ある程度までは、理解できます。

しかし、わたしたちは、どんなに間違えても、二千年の教会史を無視することはできませんし、無視してはなりません。教会史の一切をジャンプして(すっとばして)聖書正典に立ち戻り、それで事足れりとすることだけが、プロテスタンティズムの本意ではありません。

「聖書のみ」(sola scriptura)は、わたしたちにとって自明の原理ではない、というのが、ファン・ルーラーの基本姿勢です。教会は、歴史の中にある以上、「伝統」(tradition)を無視することができません。

たとえば、改革派教会は「改革派伝統」(Reformed Tradition)を、無視することができませんし、無視すべきでもありません。

また、われわれプロテスタント教会の大原則には、「信仰のみ」(sola fidei)と「恵みのみ」(sola gratiae)もあります。これら三つのsola(のみ)は互いに緊張関係にあると、ファン・ルーラーは考えました。「聖書のみ」(sola scriptura)だけを、他の「のみ」から切り離して、振りかざすことはできないのです。

少なくともわれわれは「信仰の歴史」と「恵みの歴史」を無視することができません。パネンベルクやヴィルケンスらが強調した「影響史」(Wirkungsgeschichte、聖書の言葉が教会と世界に与えた影響の歴史)というものを無視すべきではありません。

そして、教会史において不可避的に形成されてきた「教派」や、「信条・信仰告白」(クレドー)や、「教会規程」(オルドー)というものを、無視することができません。

わたしは、「改革派エキュメニズム」(Reformed Ecumenism)という一段階を経た上で他教派・他教団とウマくお付き合いしていく道こそが、真に有効なエキュメニカル運動であると、固く信じています。

だからこそ、わたしは、「日本キリスト改革派教会」(Reformed Church in Japan)に参加しました。

わたしの見方では、この「改革派エキュメニズム」の思想は、日本キリスト改革派教会の「創立宣言」(1946年)において、すでに明確に表現されています。

日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年)現代語訳/関口康訳を参照してください。

「改革派エキュメニズム」に関連して、とくに重要な個所は、「第二の主張:信仰告白・教会政治・善き生活を具備した教会の建設」です。とりわけ、以下の文章などに注目する必要があります。

「以上の略述によって明らかにされたと言いうることは、わたしたち日本キリスト改革派教会は、ほんの少しでも、いわゆる分派的精神(sectarianism)に由来するものではありえないのだ、という一つのことです。正しい筋道に従って形成して行く教会の公同性と統一性は、わたしたちの最も大切にするところであり、わたしたちの教会の真髄なのです。」(関口訳)

ここに言い表されているのは、日本キリスト改革派教会が進むべきは、「正しい筋道」に従って「教会の公同性と統一性」を形成していく道である、ということです。

逆に言えば、「正しい道筋」に従わないで形成されていくような「教会の公同性や統一性」は、われわれの求めるものではない、ということです。

そして、わたしたち日本キリスト改革派教会にとっての「正しい筋道」とは、まさに「信仰告白・教会政治・善き生活を具備した教会」を建設する道です。

「信仰告白」はいい加減、「教会政治」もいい加減、「善き生活」もへったくれもない、というような荒廃した状態で、ただ人が多く集まっているだけ、お金(献金)をたくさん集めるだけ、というようなのは「教会」とは呼べないものだと、わたしたちは確信しているのです。

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