2010年8月26日 (木)

オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』についての新しい情報

残暑お見舞い申し上げます。皆様、酷暑の中、いかがお過ごしでしょうか。

さて、かき氷の代わりにはなりませんが、「たまには神学の話題もいかがですか」という感じで、少しだけお付き合いいただけるとうれしいです。

オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』がこれまで第1巻から第3巻まで刊行されましたが、第4巻がなかなか出ないので、どうしたことかと思っていました。

第1巻のタイトルが『神学の本質』、第2巻は『啓示と聖書』、第3巻は『神、創造、人間、罪』と続き、第4巻はいよいよ神学の本丸としての『キリスト、聖霊、救済』に突入することになっていましたので、今か今かと心待ちにしていました。

ところが、このたび発表されたことは、な、なんと、第4巻は「二分冊」(IVA/IVB)になり、今年2010年12月に刊行予定であるとのこと。そのことが出版社の公式ホームページで明らかにされました。

そのことは、ここ(↓)に書いています。
http://www.boekencentrum.nl/shop_details.php?productId=23198

もっとも、そのあとに続く第5巻も第6巻も、それぞれ「二分冊」にするという計画を、出版社はかなり前から発表していました。ちなみに、第5巻のタイトルは『神の国、宣教、教会』、第6巻は『政治、国家とセオクラシー、教会職制とエキュメニズム』です。

さらに計画では、著作集全体は全9巻で構成されることになっており、第7巻は『対話集(カトリックとプロテスタント、など)』、第8巻は『説教と黙想』、第9巻は『索引と文庫目録』になるとのこと。とくに注目すべきことは、計画の出発の段階では「本著作集には説教や黙想は含めない」と発表されていた説教や黙想が収録されることになったことです。読者としてはうれしい話ですが、編集者たちとしては出版計画の二転三転で大変な状態だろうと想像できます。

オランダ語版『ファン・ルーラー著作集』(Dr. A. A. van Ruler Verzameld Werk)の新しい構成

 第一巻 神学の本質*
 第二巻 啓示と聖書*
 第三巻 神、創造、人間、罪*
 第四巻 キリスト、聖霊、救済(上・下)
 第五巻 神の国、宣教、教会(上・下)
 第六巻 政治、国家とセオクラシー、教会職制とエキュメニズム(上・下)
 第七巻 対話集(カトリックとプロテスタント、など)
 第八巻 説教と黙想
 第九巻 索引と文庫目録         (
*既刊)

以上の動きに関して総じて言えることは、出版計画の最初の段階よりも巻数がだんだん増えてきているということです。

そのことを(いくらか期待値を含めて)別の言葉で言い直せば、この著作集の出版事業そのものが順調に進展しており、売れ行きなども(おそらく)好調であり、出版資金的にも潤沢になってきたために、計画当初は「今どきこんなものが売れるのかい?」と半信半疑であった著作集刊行会の人々の心も改められ、収録論文の数を増やすことができそうなので、これも入れよう、あれも入れようと、先行きの見通しが開けてきたからに違いないということです。

だからこそ巻数そのものが増え、全9巻の予定ながら、そのうち3巻もが「二分冊化」され、すべての冊数は12冊にも膨れ上がってきたわけです。しかも、各冊のページ数の平均は約500ページ強ですから、ごく大雑把に数えても500×12=6000ページ強の「巨大な著作集」(!)が数年後には完成することになるということです。

もっともオランダには、20世紀のプロテスタント神学者の「巨大な著作集」としてウプケ・ノールトマンス著作集(Oepke Noordmans Verzamelde Werken)とミスコッテ著作集(Verzameld Werk van K. H. Miskotte)という二大著作集がありましたので、ファン・ルーラーのそれは「遅刻してきた」ものです。しかし、質的・内容的に言っても、量的・規模的に見ても、話題性・国際性から言っても、ファン・ルーラーの著作集が三つの巨大著作集の中では最大級のものになるであろうことは、今からはっきりと断言できます。

さて、このようにオランダの状況が相当流動的な様相であることが分かりましたので、わたしたち日本のファン・ルーラー研究会としてもかなりしっかりと腰をすえて、じっくり取り組む他は無いだろうと私自身は考えている次第です。

しかしまた、オランダ語版著作集がすべて刊行され終わったときが、わたしたちが翻訳のために動き出すときであると考えるとしたら、それはいくらなんでも遅すぎるわけですから、現時点で我々が手にしている文献に基づいての翻訳を可能なかぎり進めておく必要があると思っています。

この記事の趣旨は、短く言えば「ファン・ルーラー著作集がオランダで売れているようですよ!わたしたちもがんばりましょうね!」ということです。

私も少しずつですが、とにかくコツコツ続けています。先日『季刊 教会』誌に前半部分を掲載していただいたファン・ケウレン博士の論文(ファン・ルーラーとカール・バルトの神学との関係について)の後半部分の翻訳が完了し、その原稿を10日ほど前に編集部に送りました。後半部分もお読みいただけますとうれしいです。

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かなりのギャンブル性を感じるが、やるかぎりは正々堂々と

「あなたは牧師なのだから、みんなが読んでいるブログで政治の話は控えるように」と実家の母から釘を刺されたことがありますので、“控えめに”書きます。

民主党の代表選にO氏が出馬することにしたとのこと。現首相のK氏が「それは良かった」とコメントしたようですが、私も今のところ同感です。

私の予想では、代表選にはO氏が勝ってしまうのではないか、従って、どのみち短期間でしょうけれども、我が国の歴史に「O首相時代」なるものが発生してしまうことになるのではないかと感じていますが、そのときには「民主党支持」の旗をすみやかに降ろし、強く抵抗するのみです。抵抗の理由はいろいろありますが、最も大きなことは、カネと政治の問題が全く解決していないことです。

しかし、もし「O首相時代」が少しでも長く続いてしまうことになるようでしたら、そのときには、現民主党の「反O氏グループ」は大挙して民主党を出て真の新党を結成すべきです。本来、「古いぶどう酒」と「新しいぶどう酒」は混ぜないほうがよかったのです。古いぶどう酒を入れる「古い革袋」と新しいぶどう酒を入れる「新しい革袋」は、それぞれ分けるべきだったのです。おそらく間違いなく、H前首相の人間的弱さがO氏の強さへの依存を求め、今の政局の混乱の原因となったのでしょう。H前首相の弱さは理解できないものではありませんが、ため息ばかりが出てきます。

しかしまた、以上の予想は外れることを願っています。民主党の現体制が維持されることを期待しています。ともかく、この道は、民主党が、いや日本政治が、遅かれ早かれ、どのみち通らなければならない道だったようですから、やるかぎりは正々堂々とした戦いがなされることを求めます。

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2010年8月 9日 (月)

心からお願いいたします

実は皆様にお願いがあります。恥をしのんで書きます。

昨年(2009年)5月14日の日記に書きましたとおり、その前日に大事なノートパソコンを落として壊してしまいました。

その事故によって、そのノートパソコンの中だけに入っていた2007年10月から2008年12月までの一年三ヶ月間のメールがバックアップできておらず、その期間中に私からどなたかに送信したものも、また私宛にどなたかから送っていただいたものも、完全に消滅しました。

今の状態は、私にとって「大変危険」です。その期間の「記憶」が私の脳内から消滅している状態にほぼ等しいと感じています。つまり、その部分だけ「記憶喪失」に陥っているということです。ちなみに、それ以前のメールと、それ以後のメールについては、すべて保管しております。

しかし、何をどうあがいても、もはやどうすることもできないと諦めていました。が、先ほど一つの名案を思いつきました。

その名案とは上記期間中に私からメールを受け取ってくださった方々には「私のメールを送り返してくださいませんか」と、また、同じ期間中に私にメールを送ってくださった方には「もう一度送っていただけませんでしょうか」と、それぞれお願いしてみましょうということです。

これを読んでくださった方のうち、上記に該当する方、ぜひご協力くださいますようお願いいたします。

その際、できましたら、該当メールのタイムスタンプ(パソコンが自動的に付ける日付や時刻)が変わらないように送っていただけますと助かります。

当方のミスによる失態をどうかお許しください。本当に申し訳ございません。

2010年8月9日

関口 康

メールアドレス: ysekiguchi@nifty.com

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2010年7月24日 (土)

これは「無題」にしておきます

わりと最近、複数の人から「森永卓郎さんに似ている」と言われて、「ついに来たか」と、なんとなくショックを受けました。

とはいえ、早晩そういう話になるだろうといくらか予測してはいましたし、たしかによく似ているようですので、「ショックを受けた」は冗談が過ぎるかもしれません。

二年くらい前には、「カンニングの竹山(さん)に似ている」と、ある人から言われました。そのときは「似てないよっ!」と即座に反論しましたが、あとでよく見ると、なるほどよく似ているらしいことが分かりました。

お二人と私のあいだに共通点があるとしたら、肥っていること、眼鏡をかけていること、年の割に髪の毛が黒くてフサフサしていること、語り口がどこかしら皮肉っぽいこと、いつも何か企んでいるような(欲が深そうな)目をしていること、くらいでしょうか。日本の道を歩けばどこでも出会うタイプの、普通の中年おじさんです。

話はそれだけ。オチの無い話、でした。おしまい!

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2010年7月22日 (木)

カルヴァンからカントへ(6)

ところで、カントの『たんなる理性の限界内の宗教』(原題Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)の英語版のタイトルはReligion within the Boundaries of Mere Reasonとなっていますが、従来「たんなる理性」などと訳されてきたところは、できれば「裸の理性」(blossen Vernunft)と呼びたいところです(「裸の理性の行方」参照)。

一方、Grenzeをboundaryと訳した英語版の訳者は卓見の持ち主だと思いました。これは「限界」という何処となくネガティヴな響きを持つ表現よりもむしろ「境界」もしくは「境界線」ではないでしょうか。

こうしてみると、本書のタイトルは「裸の理性の境界線の枠内で了解される宗教」ではないだろうかと考えてみました。あるいは、もっと短くして「裸の理性が及ぶかぎりの宗教」とか「裸の理性でとらえうるかぎりの宗教」でもよいかもしれない。

「裸の理性」とは、純粋理論理性でも純粋実践理性でもない、まさに「たんなる」理性であり、それはただの理性、普通の理性、通常の理性のことを指しているわけですから、そのとおり訳せば「普通の理性の範囲内の宗教」でもよいかもしれない。

このあたりのことも、いつかカント研究の専門家にお伺いしてみたいところです。

このカント的な意味での「普通の理性の範囲内の宗教」(Die Religion innnerhalb der Grenzen der blossen Vernunft)を構築していくことの積極的な意義については、今日では多くの言葉を必要としていないように思われます。

「宗教には理性を越える要素がある」というのは、なるほど我々にとって当然すぎる言い分ではあります。しかしまた、それと同時に、「我々が生まれつき持っている通常の理性で判断しうる範囲をあまりにも越えすぎないように、多少なりとも抑制すること」は、教会の者たちにとっても必要なことであり、大切なことでもあると、私には思われるのです。

たとえば、神学をあまりにも過度に「グノーシス化」させないために、普通の理性(blossen Vernunft)を十分に機能させることが必要です。宗教家たちが、自分自身はまだ実際に行ったことも見たこともあるわけではない「死後の世界」やら「霊の世界」やらについて、生きている間にあまりにも多くのことを語りすぎるペテンに陥らないようにするために、ある程度の理性的な自己規制を行うことは、決して間違っていません。

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